少し前からトマス・アクィナス『ヨブ記註解』(保井亮人訳、知泉書館、2017)を読んでいるところ。まだざっと三分の一程度だが、いずれにしてもこのような書が邦語で読めるとは、なんとも素晴らしいの一言に尽きる。ヨブ記をめぐる注解なので当然ながら内容的には神義論が大きな部分を占める。もちろん、自然学的な記述や、ストア派・パリパトス派などの考え方への言及なども数は少ないものの散見される。けれどもやはり主体となるのは神学的な注解だ。しかもこれがなかなか興味深い。たとえば12章。ヨブの苦境を本人の罪によるものと考える友人たちに、ヨブは反論を試みるわけだが、トマスがそこに読み取るのは義人を嘲弄する富者への批判と、その際の義人の擁護のみならず、富者の富もまた神がもたらすものであるとする過剰なまでの神の肯定論だ。
「義人が嘲りを受けるのは明らかな悪のためではなく、隠された善のためである。(中略)最高善をとみに置く者は、富を獲得するために役立つものであればあるほどよりいっそう善であると考えるのが当然だからである。(中略)たとえ義人の単一性そのものが富める者の考えにおいて軽蔑されるとしても、それは時が来れば然るべき目的から欺かれることはない」(p.227)。「人はその目的を富に置くことによって、(中略)このようにして略奪によって富において栄えるかぎりで略奪者となるのである。(中略)しかるに、彼が略奪によって富を得るとき、彼は神の義に反して行い神に逆らっている」(p.228)。けれどもヨブは、与えたのは神であると言う。「悪を為そうという意志はその者自身にのみ由来するので、彼らは略奪することにおいて神に逆らうが、続いて起こる繁栄は神が彼らに与えたものだからである」(p.229)。
こういった両義的な議論の数々は、ユダヤ=キリスト教的伝統の懐の広さのようなものを改めて感じさせる。そういえば時おり経済の文脈で話題に上る「マタイの法則」(富める者はいっそう富み、持たざる者は持っているわずかなものまで奪われる、というマタイ伝13章12節をそう呼んでいるようだ)のもとの箇所もそんな感じかもしれない。イエスが弟子たちから、なぜ喩え話を用いて話すのかと聞かれた文脈でそう答えていて、そちらは文章の流れからして、経済とは関係のない、いわば信仰にまつわる象徴財を持つ者、持たざる者(社会的な富者はこちらに入る)について語っている箇所なのだが、それに続く箇所では、敵が来て蒔いた毒麦も良い種と、ともに収穫のときまで育つままにしておくよう主人が言うという喩え話が語られる。毒麦には毒麦の、なんらかの役割があるのだと鷹揚な構えを見せているかのように……。