意志の外というテーマ

談 no.111 意志と意志の外にあるもの…中動態・ナッジ・錯覚談 no.111 意志と意志の外にあるもの…中動態・ナッジ・錯覚』(公益法人たばこ総合研究センター発行)を見てみた。哲学プロバーの國分功一郎、法哲学の大谷雄裕、心理学の竹内竜人の三氏それぞれのインタビュー。國分氏は例の中動態の話を総括的に行っているが、文法的なカテゴリーである中動態を持ち出して、意志の真の主体というものがはっきりしないことを哲学的に考えるのは、やや違和感も残る。ちょうどほぼ一年前に『中動態の世界』を読んだ際には、文法学と哲学の相互作用というのは面白いとは思ったのだけれど、ギリシア語の能動態・中動態の違いは、おもに主体(主語が表すもの)の行為がおよぶ、あるいは影響を及ぼす対象が、外部のものか(能動態)か主体自身か(中動態)という違いなので、意志が関与するか否かという議論にはやはりそぐわないのではないかという気もしたのだった。今回のインタビューでも、それはいっそう感じられる。「惚れる」という動詞の事例が持ち出されてくるけれども、「惚れる」の中動態は「惚れさせられる」なのか??なぜ使役?カテゴリーミステイクではないのかしら?云々。もちろん哲学的な問いとして、意志というものは果たして本当にあるのかということを突き詰める作業は必要だし、しかるべきとっかかりも必要だろう。けれどもそれは、少なくとも文法的な態という名称、あるいはその概念から切り離さなすのでないと、かえって無用な混乱をもたらすようにも思える。

個人的に今回のインタビューで面白かったのは法哲学の大谷氏のインタビュー。些細な選択を迫られる日常的状況で、人は意外に安易なものを選択する(たとえばランチのセットメニューだったり、アプリの設定をデフォルトのままにしておくことだったり)。そのような選択を促す、一種のちょっとした傾斜をかける行為を、キャス・ナスティーンという人がナッジ(nudge)としてテーマ化しているのだという。ごく柔らかなパターナリズムだというその概念に、実は大きな問題が潜んでいそうだ、というのが大谷氏の考え方だ。ナッジでもって干渉することの正当化はどこに見いだされるのか、ナッジを解除するようなメタレベルの選択があったとして、それにもまたナッジが課されることもありえ、どこまでいってもナッジがついて回るとしたら、自由の概念はどうなってしまうのか。ナッジはどのようにコントロールすべきかのか、云々。この傾斜の話、法制度の問題も絡んでくるとても興味深いテーマであることが、このインタビューから明らかにされる。竹内氏の話についてはまた別の機会に。