言葉の文法から説き起こす思想、あるいはそれを踏まえた広義の哲学ないし思想というのは、とても豊穣な視点・論点を提供してくれそうではあるけれど、取り扱いが難しい所業でもある。安易に近づけば手痛い目にあるかもしれないが、逆にそこにある程度の深度で浸りきることが出来れば、簡単には真似できないような豊かな成果を引き出すことにもなる。そんなことを思わせるのが、佐藤真理恵『仮象のオリュンポス:古代ギリシアにおけるプロソポンの概念とイメージ変奏 (シリーズ・古典転生)』(月曜社、2018)。これはギリシア語の「プロソポン」(顔)という単語が、その周辺的な意味の場も含めてどのような語義的広がりをもっているのかを、多くの文献を駆使しつつ解き明かしていこうという野心的な労作。表象史(誌)の広がりを感じさせる実践例という印象だ。
語源的な問題から始まり、前四世紀以降の派生語プロソペイオン(仮面)の成立の話(テオフラストスなどに見られるといい、仮面のコード化が進む時代だったのだろうと同書の著者は推測している)など、冒頭から興味深い話が続くが、個人的にはまずなによりも、「<あらわれ>の方へ」という章題のついた第二章に惹かれた。そこで大きく取り上げられるのが原子論者デモクリトスによる視覚論、いわゆる「内送理論」だ。外送理論というのが、プラトンなどに見られる、目から光線のようなものが発され、それが外の物体と出会って像を結び、それが翻って魂にまで伝達されるというもの。これに対してデモクリトスの視覚論では、事物から剥離した原子の皮膜が像を作り、それが飛来して目に接触することで視覚像として認識される。その剥離物は、後継者エピクロスによってエイドラと称され、さらに後世のルクレティヌスではモノの映像と説明されているという。この原子の皮膜というものは、夢の像の原因にもなるといい、また発信元の事物の性格や情念をも伝えるとされ、セクストス・エンペイリコスあたりになると、本来あくまで物質的なものだったそのエイドラは、半・物質的、さらには超自然的なものへと変容しているのだという。古代ギリシアでは儚い幻像でしかなかったエイドラが、デモクリトスによって物質性を与えられ、それが時代を下ると半・物質化し神的なものにまでなっていくという変転の歴史が語られている。
対面性の解釈を扱った第三章に続き、第四章ではプロソポンの反義語「アプロソポス」(顔がない)を取り上げている。これもまた問題を掬い上げる着眼がすばらしく、印象的だ。文献的な使用頻度が極端に少ないその語は、プラトンの『カルミデス』で美少年の美しさを表すために用いられているというが、従来の「顔すらも(全身の)容姿には適わない」といった解釈をさらに深め、同著者は総合的な調和の美、さらには個別性を超越した「非人称的なまで」の美という意味合いを含みもつと見ている。同著者が述べるように、これらはまさに表象論の大きなヒントをなしている。