逆ベイズ推論とは?

ベルクソン『物質と記憶』を解剖する ―― 現代知覚理論・時間論・心の哲学との接続少し前から眼を通していた論集ベルクソン『物質と記憶』を解剖する ―― 現代知覚理論・時間論・心の哲学との接続』(平井靖史、藤田尚志、安孫子信編、書肆心水、2016)。ベルクソンの『物質と記憶』がもつ現代的射程を再検討しようという主旨の論集。ベルクソンはあまり読み込んではいないので、この論集についても評価できる立場にはないのだけれど、研究領域としての面白さは感じ取れる。たとえばギブソンのアフォーダンス理論とのオーバーラップなどのテーマは興味をかき立てるものではある。檜垣立哉「<コラム>アフォーダンスとベルクソン」では、ベルクソンが経験論者としての側面をもちながらも、あっさりと「荒唐無稽に近い議論」「途方もない形而上学」(p.156)へと越え出でてしまうことを、どこか好意的に受け止めている(ように見える)。「純粋記憶は生体の外にある」という一見絶句しそうな文言は、時間が分割できない連続体であるということを選択したことによって導かれる「ロジカルな帰結」(同)なのだという。前回のパルメニデスではないけれど、ベルクソン哲学もまた、選択・決意によって織りなされているということか……。

郡司ペギオ幸夫「知覚と記憶の接続・脱接続ーーデジャビュ・逆ベイズ推論」という論考と、それに続く三宅岳史「<コラム>ベイズ推論と逆ベイズ推論」も面白く読んだ。前者は、ベルクソンの知覚=記憶の構造をもとに、「ベイズ推論と逆ベイズ推論を接続した推論モデルが構想できる」(p.323)としている。逆ベイズ推論とは?どうやらそれはこういうことらしい。ベイズ推論では、条件付き(あるモデルに従った)の確率でもって初期の条件なしの確率を置き換えていく。逆ベイズ推論の場合には、条件なしの確率でもって条件付きの確率を置き換える操作を想定している。けれども、ベイズ推論がモデル固定で漸進的に進みうる(新たな条件での確率・確からしさを定めうる)のに対して、逆ベイズはモデルの変更・選択をともなうため、そのままでは進んでいかない。再帰性にまつわる困難がここに待ち構えている。ベルクソンの有名な円錐の図に重ねると、ベイズ推論が知覚から記憶、逆ベイズが記憶から知覚への運動となるようで、記憶から知覚への運動には知覚の選択・誘導が必要とされるということになる。ではAIで扱えるように、逆ベイズ推論を実装するにはどうすればよいのだろうか。これは見るからに難題だ。三宅氏のコラムは、その逆ベイズ推論におけるモデル選択の条件について問いを投げかけている。

決断としての哲学(ーパルメニデス)

Le Séminaire - Parménide: L'être 1 - Figure ontologique (1985)今週読み始めたのはこれ。アラン・バディウ『セミナー:パルメニデスーー存在論1ー存在論の形象』(Alain Badiou, Le Séminaire – Parménide: L’être 1 – Figure ontologique (1985), Fayard, 2014 )。バディウの講義録シリーズから1985年度のもの。まだざっと三分の一だが、おそらくその核心部分はその第二回目の講義で提示される問いにありそうだ。つまりそれは、パルメニデスが「存在するもの」と「存在しないもの」の両方を、存在という事態から同等に見なしていること、絶対的な「一」を掲げようとして、「二」を掲げざるをえなかったことをめぐる解釈だろうと思われる。バディウはパルメニデスのそうした定立の仕方を、哲学の一つの「決断」であると喝破する。哲学の一派をなすおおもととなるその決断は、生成消滅、つまりはモノの変転を認めない立場を取ることの決断でもあり、かつまた質料因しか考えていなかった古代の自然哲学に少なくとももう一つの形相因をもちこむという決断でもあった。……ということはすなわち、原理は「一」ではなく「二」なのだ、と。そうした決断がいかなる条件のもとになされているのかを、パルメニデスに批判的なアリストテレスから読み解いていくというのが、続く講義の趣旨になっていくようだ(←今ココ)。バディウはこうした読みを、ハイデガー的な解釈を受け継ぎ深化させようとする試みと位置づけている。

これは先に挙げた論集『原子論の可能性』の第9章「ハイデガーと古代原子論」(武井徹也)と突き合わせてみても面白いかもしれない、と個人的には思っている。この論考はタイトル通り、ハイデガーの古代原子論の解釈を取り上げている。それによるとハイデガーは次のように考えていた。パルメニデスの不生不滅の「存在」が「恒常的な現前性」という特定の時間的性格をもっていたのに対して、より後代のデモクリトスやレウキッポスの(「新世代」の)自然哲学では、存在は「永続的な存立」(絶えざる生成消滅)として時間によって規定されている。しかしながらデモクリトスとレウキッポスの問いはパルメニデスへの単なる批判にとどまるのではない。パルメニデスが思惟した「存在」を、彼らは彫琢し直しているのだ……ハイデガーはそう考えていた。

ハイデガーに従うなら、「存在するものの学」を新たに確立しようとしていたとされる彼らの自然哲学は、断絶と連続の両方の相を併せ持つ動きであるかのようだ。不生不滅の「存在」と現象としての「存在するもの」(存在者)を峻別する手前で、ハイデガーは、彼らの原子と空虚の考え方を、不生不滅の「存在」の二つの面としての「存在するもの」と「存在しないもの」の存立として読み解こうとする(という)。なるほどパルメニデスの「存在」はデモクリトスらによって深められこそしなかったものの、ある意味で継承されていくものと見ることもできるのかもしれない。バディウの読みもまさにその存立の問題にかかわっている。

儒教的道徳論とサンデル哲学

サンデル教授、中国哲学に出会う今週はこれを読み始める。サンデル&ダンブロージョ編『サンデル教授、中国哲学に出会う』(鬼澤忍訳、早川書房、2019)。一時期のサンデル人気は中国でも(中国でこそ)すさまじかったようだが、これはそんな中で編まれた一冊。サンデルの議論を中国の論者たちが、主に儒教の伝統をもとに検証し、ときに批判しつつ補完しようとしている。まだ第一部の三篇の論考にのみ眼を通しただけだが、どれも興味深い視点から議論を立ち上げていてなかなかに読ませる。最初のシェンヤン・リー「調和なき共同体?」は、サンデルの共同体論がロールズのそれとは違って、共同体を正義の概念の前提と見、道具的な善になど収まらないようなものであって、共同体を構成するメンバーの自我あるいはアイデンティティの一部となるものと考えていることを高く評価しつつも、そこに儒学が説くような調和の考え方がない点に疑問を投げかけている。

トンドン・バイ「個人、家族、共同体、さらにその先へ」は、儒教が家族から共同体へと拡大させようと説くものを「心遣いのネットワーク」と捉え、サンデル的な共同体論との重なりを見いだす。けれどもその一方で、より現実的な政治のあり方についての儒教の教え(少数の者による寡頭政治を認める)が、サンデルなどの共同体論とは異なることを指摘してみせる。そうした側面での儒教は、ときにサンデルが批判するロールズの議論のほうに重なるという。共同体のリアルポリティクス的な面は、その理想論に揺さぶりをかける契機としてもっと重視される必要がありそうだ。ヨン・フアン「美徳としての正義、美徳にもとづく正義、美徳の正義」は、サンデル的な正義は美徳にもとづく正義であり、儒教が説くのは美徳の正義であるとして、両者の差異を明らかにしようとする。儒教が説く正義とは、悪徳な者を罰することではなく、その者が有徳な者になる手助けをすることにあるという。美徳にもとづいて財などの何かを分配するのではなく、美徳それ自体を分配するという思想。人からされて嫌なことを人にせず、人からされて喜ばしいことを人にせよという儒教的黄金律すらをも超越するような視座の可能性が描き出される。

機械学習の型稽古

Pythonではじめる機械学習 ―scikit-learnで学ぶ特徴量エンジニアリングと機械学習の基礎今週はあまり読書時間が取れなかったので、とりあえず通読完了直前のものを取り上げておこう。基本的な教科書だけれど、数ヶ月前からコードを実際に打ち込みつつ読んできたのが、アンドレアス・ミュラー&サラ・グイド『Pythonではじめる機械学習 ―scikit-learnで学ぶ特徴量エンジニアリングと機械学習の基礎』(中田秀基訳、オライリージャパン、2017)。Pythonの機械学習用ライブラリの代表格であるscikit-learnの具体的な紹介本だけれど、機械学習を実践する上でのいろいろなやり方、tipsが学べる。もちろんこれを通読したからといって、すぐに実践に活用できるわけではなさそうだが、scikit-learnには学習用の適切なデータセットなどが含まれていて、いわば柔道などの型稽古としては悪くないのでは、という気がしている。ただ難点は、2017年刊行なのに、掲載コードを実際に打ち込んで実行すると、Future Warningが結構出るということ。一部の機能が今後のバージョンで廃用になりますよ、こちらに乗り換えてください、というわけで、わずか2年くらいで古くなってしまってしまうという、昨今のプログラミング本の命運……。機械学習では自前データの収集と前処理が重要だということも改めてわかる。そのための技法などを別口で学ぶ必要もありそうだ。

古代の原子論に線を引く

原子論の可能性:近現代哲学における古代的思惟の反響今週は次の注目の論集を読み始める。田上孝一・本郷朝香編『原子論の可能性:近現代哲学における古代的思惟の反響』(法政大学出版局、2018)。まだ最初の章(金澤修「古代原子論」)だけなのだけれど、これに刺激というか、善い意味での軽い衝撃を受ける(笑)。ともすれば一枚岩のように扱われることの多い古代ギリシアの原子論に、分割線を引いてみようという一篇。まず一つには、レウキッポスとデモクリトスにおける空虚の考え方が興味深い。原子と対をなすとされる空虚は感覚対象でないという意味では「あらぬもの」でありながら、原子がその中で構成要素として働くという意味で、思考対象・構成原理としては「あるもの」ということになる、と論文著者は喝破する。これは「あらぬもの」を徹底して排除しようとするパルメニデスおよびエレア派に対立する立場ということになる(とはいえ、論文著者も示唆しているように、「あるもの」に空虚をも包摂させるとするなら、それは「あらぬもの」からは「あるもの」は生じないとするパルメニデス的思考を踏襲しその圏内にあることにもなるのだが……)。また原子論が生成・運動の理論、世界の多様性の思想をなす点においても、そうした生成をみとめないパルメニデスやエレア派と対立する構図となる、とされる。

注目される二つめの点は、同じ原子論の範疇に括られがちな彼らと、エピクロスとの差異だ。デモクリトスは生成の出発点に「渦」を起き、そこからの必然として生成を描いているとされる。一方でエピクロスは、一定の偶然(重みで下降する原子が、わずかに逸れることがある)をそこに見ていた可能性があるのだ、と論文著者は言う。これが重要なのは、そうした逸れから、すべてが決定されているとか、あるいは機械論的に連鎖するとか、というわけではない可能性、別様の理路が開かれることになり、これが自由意志の形成をもたらすことにもなるからだ。もちろんこれら二つの点は、いずれももとのテキストの散逸のせいで確固たる文献的な裏付けが必ずしもあるわけではないという。けれども状況証拠的な推論による最適解の可能性としてはとても興味深いものだといえる。