今週読み始めたのはこれ。アラン・バディウ『セミナー:パルメニデスーー存在論1ー存在論の形象』(Alain Badiou, Le Séminaire – Parménide: L’être 1 – Figure ontologique (1985), Fayard, 2014 )。バディウの講義録シリーズから1985年度のもの。まだざっと三分の一だが、おそらくその核心部分はその第二回目の講義で提示される問いにありそうだ。つまりそれは、パルメニデスが「存在するもの」と「存在しないもの」の両方を、存在という事態から同等に見なしていること、絶対的な「一」を掲げようとして、「二」を掲げざるをえなかったことをめぐる解釈だろうと思われる。バディウはパルメニデスのそうした定立の仕方を、哲学の一つの「決断」であると喝破する。哲学の一派をなすおおもととなるその決断は、生成消滅、つまりはモノの変転を認めない立場を取ることの決断でもあり、かつまた質料因しか考えていなかった古代の自然哲学に少なくとももう一つの形相因をもちこむという決断でもあった。……ということはすなわち、原理は「一」ではなく「二」なのだ、と。そうした決断がいかなる条件のもとになされているのかを、パルメニデスに批判的なアリストテレスから読み解いていくというのが、続く講義の趣旨になっていくようだ(←今ココ)。バディウはこうした読みを、ハイデガー的な解釈を受け継ぎ深化させようとする試みと位置づけている。
これは先に挙げた論集『原子論の可能性』の第9章「ハイデガーと古代原子論」(武井徹也)と突き合わせてみても面白いかもしれない、と個人的には思っている。この論考はタイトル通り、ハイデガーの古代原子論の解釈を取り上げている。それによるとハイデガーは次のように考えていた。パルメニデスの不生不滅の「存在」が「恒常的な現前性」という特定の時間的性格をもっていたのに対して、より後代のデモクリトスやレウキッポスの(「新世代」の)自然哲学では、存在は「永続的な存立」(絶えざる生成消滅)として時間によって規定されている。しかしながらデモクリトスとレウキッポスの問いはパルメニデスへの単なる批判にとどまるのではない。パルメニデスが思惟した「存在」を、彼らは彫琢し直しているのだ……ハイデガーはそう考えていた。
ハイデガーに従うなら、「存在するものの学」を新たに確立しようとしていたとされる彼らの自然哲学は、断絶と連続の両方の相を併せ持つ動きであるかのようだ。不生不滅の「存在」と現象としての「存在するもの」(存在者)を峻別する手前で、ハイデガーは、彼らの原子と空虚の考え方を、不生不滅の「存在」の二つの面としての「存在するもの」と「存在しないもの」の存立として読み解こうとする(という)。なるほどパルメニデスの「存在」はデモクリトスらによって深められこそしなかったものの、ある意味で継承されていくものと見ることもできるのかもしれない。バディウの読みもまさにその存立の問題にかかわっている。