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「コネクション」の存在論

L'anti-hume: De La Logique Des Relations a La Metaphysique Des Connexions (Problemes & Controverses)フレデリック・ネフの著書に、相変わらず流し読み的に目を通している。今回のは、前に挙げた『なにがしかの対象』『事物の属性』に続く、それらと合わせて三部作をなすという『アンチ・ヒューム』(Frédéric Nef, L’anti-hume : De la logique des relations à la métaphysique des connexions (Problemes & Controverses), J. Vrin, 2017)。これは三冊のうちではとくに面白く、これ単独で読むというのも十分アリだと感じられた。副題(関係の論理学からコネクションの形而上学へ)に示されている通り、今回のテーマは「コネクション」、つまりモノや事象の間のつながり・連関を存在論的に再考しようというもの。結果、そのつながりこそを従来とは別様の存在論的対象として認めようという話になっている。従来の存在論では、実体的か偶有的かはともなく、各々の個物にこそ存在が認められ、個物は多かれ少なかれ他に従属せず(独立して)存在するとされてきた(これをアトミズムと称している)。しかしながらそれを突き詰めると、個物同士の関係性は損なわれていくことになる。ヒュームなどは因果関係を知覚する者の内的なものにまで矮小化した(とはいえヒュームは、因果関係そのものの実在には可能性を残しているようなのだが)し、さらにその後継とされるルイスなどは、因果性など端から認めないというところにまで行っているというのだが、これに対して、因果関係をもう一度救済できないかというのが著者の試み。そこで着目されるのが、複合体を一つにまとめている関係性、とりわけその連関の在り方とはどういうものかという問題。そこから著者は、このコネクションの存在論をつかみ出そうとする。

存在論的アトミズムは歴史的には中世からあるといい、ドゥンス・スコトゥスやトマスの穏健な実在論の後、オッカムの「関係そのものは存在しない」というテーゼをもって最初の極北をなす、とされている。一方で中世思想のある種の集大成としてのライプニッツは、関係性を認識論的なものと見なしつつも、それを事物の基盤として捉えてみせる。ここに、連関(コネクション)の関係性の議論が胚胎する。ネクサス(コネクションが操作・作用を言うのに対して、ネクサスはその産出物としてのつながりを言う)をめぐる思想はその後18世紀に、ウォルフ、バウムガルテン、カントなどによって洗練され、さらに後にはウィトゲンシュタイン(アトミズムの系譜にも入れられるが)、そしてホワイトヘッドにまでいたる……。著者ネフは、新しい存在論の可能性を論じながら、それをきっちり哲学史上に位置付けようとし、実に手際よく整理しながら話を進めていく。もちろん分析哲学的なアプローチが主となるのだけれど、哲学史のあまり表面に出ない系譜をまとめ上げている手法も見逃せない。というか、そういう堅実な部分が、どこか重厚な筆致と合わせて、魅力を醸しているように個人的には思える……。

通詞の現象学 – 番外篇

不干斎ハビアンの思想:キリシタンの教えと日本的心性の相克思うところあって読み始めていた梶尾叡一『不干斎ハビアンの思想:キリシタンの教えと日本的心性の相克』(創元社、2014)を読了。不干斎ハビアンというのは、キリシタンの指導的知識人として活躍していながら、1621年に亡くなる10年前から棄教し、キリスト教の教えを批判する書をしたためた人物。そんなわけでその思想的変遷は研究の対象として誠に興味深い存在でもある。なにゆえに棄教したのか、棄教するまでにどのような変化があったのか、教義は本当に血肉化されていたのかなどなど、様々な点が問題になりそうだ。キリシタン時代の著書(『妙貞問答』)と棄教後の批判の書(『破提宇子』)をそれぞれ読み解く論文からなる同書は、そうした問題に対する回答として一つの見取り図を描き出している。たとえば『妙貞問答』からは、普遍主義的な感覚が色濃く出ていて、キリスト教の根底にある選民思想のような部分がほとんど見いだせないという。またイエスそのものが説く精神的覚醒としての救いのメッセージも希薄で、また三位一体などの公式の教義なども取り上げられず、ひたすら神への帰依だけが前面に出てくるのだという。また、その書に出てくるという仏教批判についても、輪廻や前世の因果といったテーマが批判対象として取り上げられていないといい、そうしたことから、ハビアン本人の中に根付いていた土着的(日本的と称される)心性が、教義の受容をどこか歪めるモーメントとなり、さらに西欧の宣教師たちの尊大さや日本人蔑視などへの反発などが相まって、棄教、ひいてはキリスト教への批判・非難へと繋がっていくのではないか、というのが論考の大まかな見立てとなる。

後の批判の書『破提宇子』からも、ハビアン本人の思想的特徴として「現世主義」「世俗主義」「述語的認識志向」「合理主義」を抜き出し、それらにむしろ好意的な評価を下している。キリスト教関係者の側から批判的になされたものが多いという従来のハビアン研究(背教者というわけなので、目の敵になるのは当然なのかもしれないが)に対して、その点が同書の試論としてのメリットだろうと思われるが、一方で日本的心性といった本来的に慎重さを要する記述がやや安易に使われている感じもあり、そのあたりはむしろもっと幅広い見地、土着的風習と後からもたらされた宗教的教義との対立がどう融和・混成するのかといった人類学的な視点から考えるべき問題のようにも見受けられる。というか、そういう方向に問題を開き直す、という問題提起と読めなくもないか。

ダンテ「水と土……」挿入図 1

メルマガのほうで読んでいる、ダンテ「水と土の二つの元素の形状と位置について」(De forma et situ duorum elementorum aque videlicet et terre)。その第12節の図を羅独対訳本から掲げておく。+++が天球、++が水の球(偏心しているとされる)、+が土の球。Aが土の球の中心、Bが水の球の中心、上方のZは、落下する(という想定の)土塊と水の初期位置。

スコトゥスの感覚表象論

カントが中世から学んだ「直観認識」: スコトゥスの「想起説」読解少し前から眺めていた八木雄二『カントが中世から学んだ「直観認識」−−スコトゥスの「想起説」読解』(知泉書館、2017)を読了。スコトゥスのテキスト(『オルディナティオ』第4巻45章、第三問)に、いわゆるランニングコメンタリーを付けて一冊の本に仕上げるという、ありそうでなかった、なかなか面白い試みだ。現代においては、中世のテキストをただ訳出して刊行するのはどこか味気なく、ほとんど研究者界隈でしか読まれないことになってしまうが、こうした形式ならば多少とも一般向けになりうるのではないかという気もしなくもない(もちろん価格や装丁など、ハードルはほかにもあったりするのだけれど)。そういう意味では、来るべきこれからの古代・中世の古典訳出の一つの在り方を先取りしたような、可能性を開いてみせた一冊かもしれない。

内容的には、離在的な魂(肉体から離れた、死後の魂)に記憶がありうるかどうかをスコトゥスが検討するというものになっている。これがそもそも問題になるのは、中世盛期にいたるまでの哲学的伝統では、感覚的なものは肉体に、知性的なものは魂にあてがわれるのが一般的で、そのため、最期の審判において肉体を離れた魂が生前の記憶を蘇らせるというキリスト教の教義との整合性を、なんらかのかたちで取る必要が出てくるからだ。スコトゥスは従来の伝統から一歩はみ出て、感覚的なものとされていた記憶の機能が、知性にもあるということを論証しようとする。個別の感覚認識をまとめあげる感覚表象を、知性の機能として認めようという議論。これは後のカントにおける「悟性」の、先駆け的な議論かもしれない、と。まさにその点こそが、スコトゥスが近代的な哲学への第一歩を踏み出したといわれる所以となっている。

余談。このところ詩と哲学の関係性というのを個人的に再考したいと思っているのだけれど、同書の中で著者のコメンタリーに、芸術家が言葉にならないものを言葉で汲み取ったとしても、それが社会の共通認識にならなければ哲学の世界には入ってこないという指摘があった(p.93)。そこでは、哲学者は詩人の世界には入れず、一般社会の常識にとどまって言葉に対峙していなくてはならないとされる。しかしながら哲学もまた、ときに同じ常識的な言葉を用いながらも、通常の意味とは別の意味をそこに付加しようとしたりする。それもまた一つの詩的営為と捉えてしかるべき、なんてことを改めてつらつらと想ったり。

プルタルコスによるストア派批判

Moralia, Volume XIII: Part 2: Stoic Essays (Loeb Classical Library)プルタルコスの『モラリア』から「ストア派の矛盾について」をLoeb版(Moralia, Volume XIII: Part 2: Stoic Essays (Loeb Classical Library), tra. H. Cherniss, Harvard Univ. Press, 1976)で読んでいるが、そろそろ終盤に差し掛かってきた。というわけで、雑感メモ。ここでのプルタルコスは、クリュシッポスを中心にストア派が時として相矛盾するテーゼを示しているということを、テーマ別に、彼らの著書(現存してはいない)の随所からの引用同士を突き合わせて細かく指摘していく。その指摘は容赦なく、また細部を穿つ感じもあって、ある意味意地の悪いアプローチなのだけれど、逆にそれによって、限られたものではあっても、わたしたちは失われた著作の一端が伺い知れるという利点をもなしている。また現代的になら、矛盾する記述同士をどう整理して理解するかという観点からアプローチするところだが、プルタルコス(アカデメイア派に属している)はあくまでそれらを論難することに始終する。解釈によっては、もしかしたらプルタルコスとは別様の理解、別様の結論も導けるのかもしれないが、とにかく現存するコーパスが少ないという問題は残る……。テーマは倫理学が中心で、よりよき生、善悪のエティカ、悪の認識、快不快の問題、レトリックなどと進んでいき、そこから神学的・自然学的な議論に入っていく。

批判の例として胚の魂の生成にまつわる議論を上げておこう。クリュシッポスは子宮の中の胚を、植物と同じように自然によってもたらされたものと見、誕生の際にその火のような精気(プネウマ)が空気によって冷やされて魂となる、と考える。プルタルコスの指摘によれば、クリュシッポスはある箇所では生命の起源を火と見ながらも、また別の箇所ではその冷却をその起源と見ているという。ここにすでに自己矛盾がある、というわけだ。また、胚においてプネウマが冷やされ弱まって魂になるとなれば、魂は身体よりも新しいということになる。魂に備わる性格や傾向は、親に似るとされるのだが、するとそれは誕生時以降に備わることになってしまうし、また、親との類似性が身体の物質的な混成によって生じるとするなら、魂が発生した後に変化するということにもなる。アカデメイア派からすれば、それは到底ありえない話になってしまう。