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訂正の可能性、転喩の可能性

(bib.deltographos.com 2024/03/12)

アクロバティックな読み

このところ、東浩紀『訂正可能性の哲学』(ゲンロン、2023)を読んでいます。とりあえず前半の第一部。家族概念を、従来の組織概念に膨らませている(家族の外には、別の意味での「家族」しかない……)ことと、その組織のルールが遡及的に変更されながら、それでいて一貫性を保っている(それもまた遡及的にしか見いだされない……)ことの指摘が、大きなポイントになっています。

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議論の全体を支えているのは、まずはウィトゲンシュタインの言語ゲーム論と、クリプキの懐疑論です。それらが、ここではなんと、組織論(共同体論)に絡めるかたちで読み返されています。これには「おおっ」となりますね。このような読み方は凡百の論者にはできない種類のものでしょう。批評を長くやってきた著者の、目のつけどころの違いというか。

著者はさらに、ローティーの連帯論や、アーレントの公共性の議論なども接合していきます。これらを通じて、共同体が維持されるには変化がなくてはいけない、共同体が変化するには一貫性がなければならない、といった論点が強調されていきます。

それにしてもこの読み方、著者も触れていますが、おそらく大学の哲学プロバーの研究者などからは評判が悪いでしょう。「ウィトゲンシュタインの議論はそんなことを示唆していない」とか「クリプキの意図はそこにはない」とかなんとか。思うにそれは、根本的な研究意図の方向性が違うからでしょう。専門の研究者は元のテキストに込められた意図へと向かうのに対して、同書はそのテキストをジャンピングボードとして、そこからの飛翔を求めている、という感じですね。

メタレプシス

このような、少し違った別筋の読み方、アクロバティックな読み方は、ある種の直感的なものなのかもしれませんが、では、なんらかの訓練によってたどり着けないものなのか、という疑問も浮かびます。で、そのためのヒントとして真っ先に浮かんだのが、ジェラール・ジュネットによる『メタレプシス』(転喩)です。2009年の本ですが、一昨年、邦訳も出ました(久保昭博訳、人文書院、2022)。

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メタレスプシスというのは、狭義では「先行する事象を後続する事象で表す」あるいは「後続する事象を先行する事象で表す」という意味ですが、ジュネットが論じているのはむしろ広義の、「比喩をさらに換喩的に置き換える」(換喩的転義)、「すでに比喩として用いられている言葉を、さらに比喩的に言い換える」(多段転義)のほうです。

ジュネットはそれを、単なる文彩としてではなく、虚構を打ち立てるための仕掛けとして取り上げ、小説、映画、演劇などの多彩な表現芸術において、転喩がいかにそうした表現世界・虚構世界を作り上げているかを示していきます。たとえば一人称の小説形式において、著者が語り手となり、場合によっては登場人物の一人になるものなども、ジュネットによれば「転喩的操作」だとされます。脱線ですが、役者のニコラス・ケイジが作中で、登場人物のニコラス・ケイジを演じる『マッシブ・タレント』なんて映画など、その最たるものかもしれません。

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話を戻すなら、『訂正可能性の哲学』でのテキストの読み方も、そのような転喩的操作を思わせます。もちろんここでは、人称ではなくて、より一般的な言葉の転義のほうの操作です。家族という言葉が、小さな単位の家族から、より大きなものへと拡大されるように、参照するテキストで使われている言葉も、もとの意味からあえて転義的に受け止めることで、読みの可能性(の地平)をさらに拡大させることができるかもしれない、ということです。考えてみると、そうした操作は実は本来、歴代の哲学者が行ってきた、とても哲学的な操作だと思うのですよね。

専門的研究の方向性はそのままに、一方で、それとは別筋のそうした哲学的営為としての操作も、もっとなされていい、もっとなされるべきかもしれない、との思いが強くなりました。

 

歯車理論と個人の責任

(bib.deltographos.com 2024/03/02)

昨年の秋に出た『<悪の凡庸さ>を問い直す』(田野大輔・小野寺拓也編、大月書店、2023)を読んでみました。アーレントがアイヒマン裁判について記した『エルサレムのアイヒマン』の副題にもなっている「悪の凡庸さ」というフレーズは、通俗的な文脈では、いわゆる歯車理論(普通の一個人が組織に歯車として従属する、という見方。関係した個人の責任が相対化される点で、問題含みの理論ですね)との関連で取り上げられることが多いと思いますが、アーレントの真意はまったく別のところにあったし、アイヒマンを単なる歯車と見なすのは大きな間違いだ、ということを、改めて開示した良作です。

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同書は、歴史学者と哲学研究者からの寄稿、そして討論会で構成されています。歴史学からは、アイヒマンが平凡な官僚などではなかったことがまず示されていきます。口八丁手八丁という感じで、仕事の能力は高く、また自己演出に長けた特異な人物像だというのですね。その一方で、哲学の側から、アイヒマンの発する言葉には決まり文句が多く、他人の身になって考えるという姿勢が一向に見えず、ある種の感性が欠落している浅薄な人物像が浮かび上がる、とも指摘されます。

このギャップ、この二面性をどう捉えるか、その際に「凡庸さ」という言葉がどう当てはまるのか、反ユダヤのイデオロギーはアイヒマンにどう関わってくるのか、などが大きな問題とされています。

哲学の側はまた、そもそもアーレントのいう「悪の凡庸さ」は、通俗的理解での歯車理論のことなどではなく、他者に身を寄せる思考の欠如による浅薄な悪、といった意味での「凡庸さ」なのだと指摘します。絶対的・根源的な巨悪の実在を想定するのは危険だというヤスパースの言葉を受けて、アーレントは「浅薄さ」にこそ、その悪の始原を見ようとしていたのだ、というのですね。

アーレントもそうですが、哲学者は自分の使う用語に、普段使いの意味とは別種の意味を込めることが多々あります(それが哲学的営為の本筋でもあったりします)。ところがその別種の意味について言葉を尽くして説明していないことも多々あり、これが多様な解釈の、あるいは誤解のもとになってしまう、というわけです。

歴史学と哲学研究との、目的やスタンスの違いも興味深いものがありますね。このアイヒマンの問題だけにとどまらず、こうした学際的な討論は、通俗的理解に対する批判的啓蒙という意味でも、重要なものだと思います。もっといろいろ読みたいですねえ。

 

通史的ナラティブの魅力

(bib.deltographos.com 2024/02/24)

昨年末にローラン・ビネの『文明交錯』を読んで、久々に戦記というか、政治史的な語りを読むときの、あのわくわくする感じを思い出しました。ビネの本はフィクションですが、何かそういった、スケールの大きな通史の語りをもっと味わいたいと思っていた矢先、kindle unlimited に、杉山正明『大モンゴルの世界——陸と海の巨大帝国』(角川ソフィア文庫、2014)という本が入っているのを見つけました。西欧史の向こうを張れるのは、やはりアジアの歴史じゃないとね、ということで、さっそく読んでみました。

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内容はおもにモンゴル帝国の通史ですが、当然ながらというべきか、東アジアや西方など、周辺地域への目配せもぬかりありません。まずもって、古代中国の前史から話は始まっています。このあたり、高校生くらいのときに読んだ『黄河の水』(鳥山喜一)を思いだし、個人的になにやら懐かしい思いがしました(『黄河の水』は、復刻版がkindleで出ていますね→ https://amzn.to/3Ta1Ekr )。そして話は次第にチンギス・カンのほうへ。そしてさらにクビライ・カアン(同書での表記です)、その後の衰退へと進んでいきます。

これらの主要人物の周りには、当然ほかの多くの武人たちがいて、さながら群像劇のようです。思うに、通史的な語りの醍醐味は、そうした「群像劇性」のようなところにあるのかもしれません。同書の語りも実に闊達で、なんともリズミカルなのですが、それはどこか、この群像劇的な、対比的記述に根ざしているように思われます。なかなか複雑な人間同士の対比、そして各人の運・不運の対比、などなど。

著者は著名なモンゴル史の研究者ということで、昔の教科書的な記述も様々な点で改正されている印象です。たとえば戦闘の仕方も、全面的な武力衝突というよりは、かけひきの要素が強く、城を落とす場合でも、無血開城となったケースが多々あったのだとか。分裂・対立の構図にしてもそうです。著者はこう記しています。

主家の事情でやむをえず戦場でまみえることになった親戚・知友同士が友好のあいさつばかりをして実戦しようとしなかったという話は、モンゴル帝国関係の史料がしばしば語るところである。こうした人間のネットワークはさまざまなレヴェルで織りなされ、それらの膨大なかさなりのんかで、モンゴルという同一性と一体性はゆるやかにたもたれていた。(p.230)

現実には、モンゴル帝国のなかにはさまざまなレヴェルの分権勢力がおり、それらのどこからどこまでがはたして「国家」や「政権」であるのかは、じつははっきりとはきめにくい。それらが全体として、ひとつのシステムをなしているのである。(p.233)

ゆるいグラデーション的な、大局的視点ですね。そうした視点からすれば、個々の出来事は、より大きな文脈の中に位置づけられるほかありません。日本への元寇についても、その狙いは、一度目は南宋の退路を断つため、二度目は余剰人材となった農民たちを移住させるためだったのではないか、と……。

このように、初版は1991年という同書は、世界史的な大きなスパンで解釈し直した、大変興味深いモンゴル帝国史でした。

 

ルジャンドルの舞踏論

(bib.deltographos.com 2024/02/10)

昨年春に没した、「ドグマ人類学」で有名なピエール・ルジャンドル。kindle版で読めるものとして、”La Passion d’être un autre. Etude pour la danse” (Seuil, 1978)を少し前に購入していたのですが、しばらく積ん読(電子書籍なので、あくまで比喩ですが)になっていました。で、ようやく、部分的ですが読んでみました。

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社会的事象への精神分析的アプローチというかたちで、異彩を放ったルジャンドルですが、同書でも、そのことは十分に感じられます。著作としては比較的初期の時代のものですね。自由な動きの発露としてあるはずのダンス(舞踏、舞踊)が、いかに社会的な権力に取り込まれ、制約を受けつつ、許容されたジャンルとして確立されるしかない様を、時代の変遷も絡めながら論じていきます。

ただ、70年代末の著書ということもあって、書き方がちょっと衒学趣味的で饒舌ですし、当時は普通だった、用語の定義をあえて示さないまま、論を進めていくスタイルが、今からするとちょっと古くさいと感じられるかもしれません。たとえば、社会的な権力のおおもとを担うものは、大文字で始まる「テクスト」とされますが、おそらくこれ、文典ということだと思いますが、定義はとくにありません。宗教的時代も、産業の時代、そして市場の時代(現代)も、そうした聖典・法的文献があってこその社会的権力装置だ、ということのようです。また、おそらく時代が変化しても変わらない、そうした底流の機構こそが、社会における「ドグマ」とされるのだと思います。

社会的な権力装置を「暴く」(というほどでもないかもしれませんが)、という意味では、精神分析を持ち出したりするところなどからして、かなり毛色の変わった社会論ですが、身体的行為、芸術的行為のいっさいが、権力のもとに置かれて、それに役立つよう搾取されているかのような暗い書きっぷりは、それなりに印象深いものもあります。

ただ、それでは形式的な布置を言いつのっただけで、権力の側はなぜ、またいかにして身体表現を取り込んでいくのか、どのような周到なプロセスが用意されているのか、表現の側はなにゆえに抵抗できないのか、などなど、生成的な側面への考察は見られません。そのあたりがちょっと不満というか、フラストレーションを感じるところでもあります。しかしこれ、とくに継承とかもありそうにない、ある種の屹立した思想である以上、ないものねだりは無理筋かなとも思います。

 

マウントウィーゼル(偽項目・虚構記事)とな?

(bib.deltographos.com 2024/02/06)

松本直美『ミュージック・ヒストリオグラフィー———どうしてこうなった?音楽の歴史』(ヤマハミュージックエンターテインメント、2023)を読んでみました。音楽の歴史記述の変遷を、面白おかしく活写した好著でした。増刷されたという話にも頷けます。

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著者は英国の大学で教えている音楽学者ということで、その講義風の語り口がとても印象的です。扱っている中身は、メタ視点も含んだ歴史音楽学の歩みが中心です。音楽の歴史記述では、なぜ伝記的な要素ばかりが取り上げられるのか、なぜ特定の音楽家が取り上げられているのか、彼らはいかにして名声を保ってきた(?)のか、なにゆえにどこかの時点で復活したのか、あるいは忘れ去られたのか、といった問題ですね。

そのトピックのあいだに、よい意味での脱線とでもいうべき、様々な逸話が語られています。まるで実際の講義みたい。それらがまた面白く、同書の魅力にもなっています。たとえば、日本ではかつて映画音楽全集みたいな企画の常連だった、「クワイ河マーチ」の原曲「ボギー大佐」が、英国では「鼻くそ大佐」として揶揄されていた、といった話など、思わず笑ってしまいました。

で、これまた意外な話で興味深かったのですが、有名なニューグローヴ音楽事典などには、実はいくつか「偽項目」(あるいは虚構記事)が忍び込ませてあるのだとか。これ、剽窃防止のための苦肉の策だったとのことで、19世紀以降の事典類では、伝統的な習慣として、そうした偽項目が散見されるのだとか。英国ではこれをマウントウィーゼル(山イタチ)と称するのだとか。これ、実に面白そうです!本当に剽窃防止になっていたのか、同じ偽項目がある事典はどれほど出回っていたのか、どれほど相互に影響しあっていたのかなどなど、たくさんの疑問が出てきます。偽項目だけに特化した研究書とか出ていないのでしょうか。個人的に、とても気になったのでした。