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新刊情報(ウィッシュリスト)

当初の予定より遅れて、2巻セットの『ケンブリッジ中世哲学史』(The Cambridge History of Medieval Philosophy 2V Box Set”, Cambridge University Press)がようやく刊行された模様。ハードカバーで、両方合わせて1200ページを超える大作っすね。少々お値段が張るけれど、うーん、今後廉価なペーパーバック版とか出るのかしら。とりあえず様子見……か?そういえば、『ケンブリッジ古代末期哲学史』も2巻本で今年秋の予定になっているっすね。

今回は国内的にはルネサンスものが目立つような……。というわけで、今回はそちら方面もちょっと入れてみた。

中世思想史のデカ盛り?

年末に出た、スコトゥス研究者八木雄二氏の新刊『天使はなぜ堕落するのか – 中世哲学の興亡』(春秋社、2009)は、一般向けにかみ砕いて説き明かした中世思想史への入門書だった。細かな点にこだわるというより、マクロな面での要衝を押さえようとする向きにはとても分かりやすい一冊。複数の著者による共同執筆の入門書ではこうはいかない。やはり入門書って、単独での著書のほうが、たとえ取りこぼしや偏りはあったとしても、断然個性的で味わいもあるなあ、と。で、本書の場合、どこかテイストが堀田善衛『ミシェル、城館の人』(集英社文庫)あたりに似ている気がする。堀田氏の描くこのモンテーニュ一代記を「小説」とするならば(昔そういう区分けになっていたはず)、この八木氏の新刊も、ある種の「小説」と見なしてもいいかもしれない……なんて(笑)。それほどに筆の運びが快調に滑っていく感じだ。

そして随所に光るオリジナルな視点の数々。普遍論争の唯名論・実在論の話が、そのまま世俗の大学と教会の対立にスライドしていったり、アンセルムスからトマスへといたる思索の限界を指摘してみせたり、一般通念とは逆に、トマスの特殊性が中世哲学の見通しを逆に悪くしているのではないかと述べてみせたり。トマスの批判者として括られるのが一般的なスコトゥスにしても、その先駆者であるオリヴィを介して眺めれば、フランシスコ会的な伝統に意外なほど忠実だということになるのだという。通説を疑ってかかり、ひっくりがえしてみせるところなど、なんとも「反・中世哲学」的でワクワクさせてくれる。新年早々のお薦め本かも。たとえて言えば、美味しい要素をふんだんに詰め込んだデカ盛りというところ(600ページ近い大部なのだけれど、一気にかきこんで食べることができ、お得感いっぱいなので(笑))。

領域横断

昨年4月に発足したという西洋中世学会の機関誌『西洋中世研究』(販売:知泉書館)創刊号を取り寄せてみた。目次を見るだけでも、かなり多岐にわたったラインアップであることがわかる。創刊号ということで、歴史・哲学・美術史・音楽史などの現状報告・研究動向に重きを置いた紹介という趣き。ほかの学会誌に比べて、図版が多数収録されて(一部はカラー!)華やかな印象も(笑)。個人的には中世哲学関連の報告もさることながら、音楽史関連の論文二本が注意をひく。カリクストゥス写本って、例のサンティアゴ・デ・コンポステラ巡礼ガイドが入っている文書っすね。ガイド本は4巻目で、5巻目が楽譜なのだとか。また、修道女らの読書の問題を扱った論文も個人的には興味深い。そういえば、前から思っているけれど、思想史とそうした書物史・媒体史とかを結びつけるような研究ってやはりあまり見あたらない気が。こうした領域横断的な学会の誕生で、そういう風変わりなアプローチなども促されていくと面白いのだけど。うん、今後にも大いに期待しよう。

井筒俊彦エッセイ集

これも年越し本の一つ。『読むと書く―井筒俊彦エッセイ集』(慶応義塾大学出版会、2009)。いやー、なによりも今ごろに井筒氏のエッセイ本が出るとは。なかなか嬉しい。帯には入門に最適とかなんとか書いている(ただし値がちょっと張るのが玉に瑕だが)。実際そんな感じで、アラビア文化やイスラム哲学の概説的なエッセイのほか、言語論、若い時代の詩論、デリダやバルトなどについての批判的エッセイなどなど、収録されている文章はどれも短く、内容は実に多岐にわたっている。「アラビア科学・技術」(1944)では、アラビア科学と称されるものがギリシアやインドなどの科学の伝承であり、従事した学者もほとんどがアラビア人ではなく、回教(イスラム)を信奉する外国人だと述べ、「アラビア」と俗に言われているのはむしろイスラムと言い換えたほうがよい、といったことを述べている。時代はめぐりめぐって、今またアラブ思想みたいな言い方に戻ってきている感じもするだけに、なにやら感慨深いものがあるなあ、と。

拾い読み的に読んでいるのでナンなのだけれど、今のところとりわけ興味深かった文章として「神秘主義のエロス的形態聖―ベルナール論」(1951)が挙げられる。ベルナールの神秘主義が重要なのは当時の時代転換期にあって、その転換を敢行・超克していく時代史的光景にある、とした上で、その神秘主義(激情的な神への恋のようだとされる)の源泉が、実はギリシアに対するヘブライの神学思想にあるとして、著者はいきなり壮大なステップバックを行う。一神教的なものの成立におけるギリシアとヘブライの比較文明論的な対比(神から人間的被覆を除去するギリシア、人間性を留め深化させるヘブライ)を試みたのち、再びベルナールに戻り、その激情型の性格がいかにそうしたヘブライ以来の伝統をまっとうに受け止めているかを論じていくというもの。このステップバックは井筒氏のほとんどメソッドとなっている感じもする。たとえば「意味論序説―『民話の思想』の解説をかねて」(1990)という文章などでも、佐竹昭広『民話の思想』の「またうど」の意味構造の話をするために、ここでもソシュール言語学や意味論の源泉へとステップバックしてみせる。で、そこから再び表題の議論に戻るときには、カルマや「アラヤ識」の話をも引き連れて戻ってくるという趣向だ。うーむ、なんともしなやかで鮮やかな筆さばき。ちなみに書全体の表題になっている「「読む」と「書く」」(1983)は、よみかきを学的に重大な問題にしたてたロラン・バルトについての、やや両義的な立場で書かれた一文。バルトの姿勢に肌の合わなさを感じつつも、そこに東洋古来の哲学との一致を面白がっていたりする、なんて記述がなかなかに人間くさくて良いかも(笑)。

イスラム哲学の独創性

。一昨年のグーゲンハイム本(『モン・サン・ミッシェルのアリストテレス』)に対する反論本が昨秋刊行されていた。というわけで年越し本として読んでいるところ。『ギリシア人、アラブ人と私たち』(“Les Grecs, les Arabes et nous – enquête sur l’islamophobie savante”, dir. Philippe Büttgen et al., Fayard, 2009というもの。とりあえず半分くらいまで。第一部はフランスで大騒ぎになったグーゲンハイム本の余波の総括。同書の随所に観られた「反イスラム」的記述が、雑誌やらイデオロギー的に偏ったブログやらよって増幅された経緯をイレーネ・ロジエ=カタシュという人が詳細にまとめているほか、内容面での直接的な反論(エレーヌ・ベロスタによるイスラム圏での科学の受容に関する反論、ジャメル・クールグリによる翻訳問題についての反論)が続く。第二部ではより広範なスタンスからグーゲンハイム本への批判が展開される。マルワン・ラシドによる論考は、問題の著者には触れずに淡々と自説を展開していくもので、なかなかに印象的。中世のアラブ世界でギリシアのテキストが受容されたのは、イスラム世界で問われていた哲学・神学的問題があったからにほかならず(グーゲンハイム本では、イスラム世界へのギリシア哲学の受容は厳密にはなされなかった、みたいに論じていたっけ)、イスラムの哲学者こそが早くに哲学の(神学に対する)自立を主張したことを指摘している。

ラシドはそれに続き、10世紀までのイスラム哲学史を振り返っている。とくに9世紀のプラトン主義者たちとしてアル=キンディ、タビット・イブン・クーラ、アブー・バクル・アル=ラージーを取り上げ、それら三者がそれぞれ異なる視点から『ティマイオス』を活用している様を記している。アル=キンディは「世界の永続」論を論駁しようとし、タビット・イブン・クーラ(ラシドが校注本を準備中とか)は循環的形相という原理を唱え、アブー・バクルは原理を5つとして論を展開する。いずれもただ『ティマイオス』を受容するのではなく、それをもとに独自の思想を展開していることを強調している。さらにこれらとの対立軸をなすアリストテレス主義のアル=ファラービーも、運動の「連続性」という考え方から神による想像と世界の永続性という本来矛盾する説を調停しようとする。なるほど、中世イスラム哲学の創造性はかなり豊かだというまとめ。