オリヴィなどフランシスコ会系の認識論にこのところ滞留している感じなのだけれど(苦笑)、その一環としてロバート・グロステストについての論考を読む。ジョン・シャノン・ヘンドリクス「ロバート・グロステストの著作における新プラトン主義の影響」(Hendrix, John Shannon, “Neoplatonic Influence in the Writings of Robert Grosseteste” (2008). School of Architecture, Art, and Historic Preservation Faculty Papers. Paper 6.)。ひねりのない実直なタイトルだが、中身も実直そのもので、その名の通りグロステストの著作から、「光」「知覚」「想像力」「知解」といったキータームを抜き出し、アラビア経由で伝えられた新プラトン主義(おもにプロティノス)の類似のコンセプトとの比較をし、その照応ぶりをまとめたもの。それほど新しい知見のようなものはない気がするので、目新しさを求める向きには面白くないかもしれないけれど、テーマ別にほどよくまとまっていて、さしあたりの復習をしようというときにはもってこいかもしれない(笑)。目下の個人的関心からすると、とりわけポイントとなるのはやはりスペキエスの扱い。普遍と個物の関係をグロステストは光源(lux)と生成された光(lumen)の関係に重ね合わせているようで、「存在の原理」(principia essendi)としてのスペキエス(未確認だけれど、グロステストはそういう言い方をしているのか……?)は普遍的形相とイコールとされて、事物のうちにあるときには「個」をなし、事物以前、事物以後においては「普遍」としてある、とされるのだという。その場合の「普遍」というのはつまり、現実的には可能態としてあり、ただ精神の内においては現実態としてあるものなのだ、と。ふむふむ。知解のレベルと事物のレベルにおける形相の在り方が整理されていて参考になる。
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存在の一義性……
邦語で読めるスコトゥス本がまた一冊登場。山内志朗『存在の一義性を求めて−−ドゥンス・スコトゥスと13世紀の<知>の革命』(岩波書店、2011)。そのこと自体すでにして大歓迎ではある。かねてから西欧のスコトゥス本や論文が、スコトゥスのテキストそのものの手触り(ときにどこが自説だかわからなくなるほど錯綜したりもする)をいっさい顧みず、かなり鋭く議論を切りとって端的に示すことに、時には舌を巻いたりもするものの、時には大いに違和感を覚えたりもしていたのだけれど、同書はそれとは正反対のことをやろうとしているように見える。つまり、スコトゥスが提示した概念を、その思考の流れみたいなものを絡めてすくい上げようとしているような感触だ。それ自体は誠実な探求ではあるのだけれど、ただ時に今回は逆にちょっとやりすぎの感じもしなくもないかな……と。専門論文的なテーマが設定されているわけではなく、かといってスコトゥス思想の全体像を描く概説書でもなく、著者が何をどう切り出そうとしているのかが今一つはっきりしない局面も、一読しただけでは散見されるように思えるし(実はそのようにして取り上げられるスコトゥスの諸概念が、いずれも相互に有機的に繋がっていることは後からわかる仕掛けになっているのだけれど)、さしあたっての語りが向かう方向すらも一見曖昧だったりする。全体的に、スコトゥスのテキストそのものとはまた別の意味での「もやもやした感じ」を通底音のように残しつつ、関連事項を行きつ戻りつしながら話は少しずつ進んでいく。なにやらこう、じれったい感じ……(笑)。
でも知見としては興味深いものも多く、たとえば一般に言われるフランシスコ会とドミニコ会の対立といった図式に疑義をはさみ、スコトゥスが向ける批判がむしろガンのヘンリクスであってトマスなどではないことや、そのヘンリクスに対しても最初から対立していたわけではなく、ヘンリクスの教義を修正・補完しながら自説を作り上げていったとされること、さらに後の オッカムとの関係も、完全な断絶の相で見ることは誤りであるといったことなどは、連続の相でもって思想史を見るという同書全体を彩るトーンにもなっている。表題でもあり中心テーマでもある存在の一義性も、有限的な存在の人間が無限の存在の認識に至るための方途、神と人間の不均衡を架橋する方途としての面が強調されている。なんだか「安易に断絶を認めないこと、概念装置を文脈から切り離さないこと」と戒めているかのようでもある。「熊野古道を本で読んだり、テレビで見ても仕方がないように、哲学もまた自分で歩んでみること以外には、体験したとはいえません。哲学の理論の結論だけを知って、分かったつもりになるぐらいつまらないことはないのです」(p.126)という著者の、なるほどこれはスコトゥスをめぐる一つの歩き方・歩き様の実況のようなものなのかもしれない。
ストア派の長い影
フランシスコ会とストア派というテーマが面白そうだという話を少し前に記したけれど、以来読んでいるトロイヴァネン論文でも触れられていたジェラール・ヴェルベケの『中世思想に見られるストア派』(Gerard Verbeke, “The Presence of Stoicism in Medieval Thought”, Catholic University of America Press, 1983)をようやくゲットし、早速目を通してみた。100ページほどの小著なのだけれど、ストア派の思想がいかに古代末期から中世へと、暗に明に命脈を保ち続けてきたのか、その全体的なイメージが掴めるという好著。セネカやキケロがいかに明示されないまま引用されているか、あるいはその思想内容が取り込まれ活かされているかを、概論的に(とはいえ結構執拗に細部が羅列されていく)扱ってみせたのが第一章。第二章から第四章まではテーマ別となり、それぞれストア派的な物質主義、倫理学、運命論と自由の問題を扱っている。どの章もかなり大きなスパン(古代末期から中世盛期まで)で描かれていて、歯切れのよい簡素な文面にもかかわらず、なにやらそれぞれ壮大な思想絵巻が立ち上がるような印象を与えてくれる。細かい点はとても細かい。けれどもやはりこれは序論ないしは総論という位置づけではある。これを踏まえた上でより細かな関係性の議論が展開されなくてはならないはずなのだが、さて、そのあたりの現状はどうなっているのかしら……。
フランシスコ会とストア派
オリヴィ関連の論文として、メルマガのほうで何回か取り上げる予定のトロイヴァネン「動物の意識:感覚的魂の認識機能についてのオリヴィ」(Juhana Troivanen, “Animal consciousness: Peter Olivi on cognitive functions of the sensitive soul”, Jyväskylä University, 2009 →PDF)。これの序文によると(メルマガの繰り返しになるけれど)、オリヴィの知覚・認識論でひときわ特徴的なのが、感覚器官にありながら魂にも局在する諸感覚を統合する司令塔のような部分があると考えていることだという。で、著者はこれが一つにはストア派の「ヘゲモニコン」に類似するものだということを指摘している。「ヘゲモニコン」は指導理性みたいに訳されたりしているけれど、要は魂の指導的部分・主要部分のことで、SVF(初期ストア派断片集)IIの836に詳細な説明が載っている。「ストア派は、ヘゲモニコンが魂の最高の部分で、像や賛意、感覚、運動などを生み出すものだと述べ、それを理性と称している。ヘゲモニコンからは魂の七つの部分が生まれ、タコの触手のように肉体へと伸びている」。オリヴィのその司令塔部分が果たして本当にこれに重なるようなものなのかどうかはテキストを調べてみないとわからないけれど、論文の著者はこれを受けて、フランシスコ会へのストア派の影響という文脈を示唆している。中世にはセネカがとりわけ幅広く読まれ注解書が書かれたりもしていたといい、フランシスコ会ではとくにそうで、ロジャー・ベーコンなどはセネカを下敷きにした倫理学の教科書まで記しているという。またキケロもそう。ただ、ストア派の思想はキリスト教世界に大きな影響を及ぼしたものの、中世の思想家たちには明確にストア派的な思想として取り上げられているわけではないため、全体としてその影響関係は見えにくくなっているとも述べている。そのため中世思想の中にストア派をトレースするのは困難だとも……。一方で著者は、G.ヴェルベケの「引用だけでなく教義的な影響関係もさぐって、間接的なストア派の遺産の浸透を明らかにしなくてはならない」との言葉を引いて、明確なリファレンスの不在は乗り越えられない問題ではないとも宣言してはいるが……。
個人的にもフランシスコ会とストア派というのはとても注目しがいのあるトピックだと思うのだけれど、なるほどこれは狭い意味での実証的アプローチを越えて、比較研究のようなアプローチが必要になってくるというわけだ。具体的にどう探ればよいのかも含めて、この論文の本文を読みつつ併せて考えてみることにしよう。
コーンウォールのリチャード・ルフス
フランシスコ会系の思想をわずかながら追いかけているのだけれど、また新たな人物登場(笑)。コーンウォールのリチャード・ルフス。この人物に関するレガ・ウッドの論考(Rega Wood, ‘Richard Rufus of Cornwall on Creation: The Reception of Aristotelian Physics in the West’ in “Medieval Philosophy and Theology, vol. 2”, 1992 →PDFファイルはこちら)を読む。リチャード・ルフスはヘイルズのアレクサンダーやボナヴェントゥラとほぼ同期で、フランシスコ会を知的一大勢力にすることに貢献した人物だという。ペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』の初期の注解者でもあり、思想的にはアリストテレスの受容に関してなかなか微妙な立ち位置である様子。この論考では、「世界の永続性」「無からの創造」といった、アリストテレス思想とキリスト教との一大反目点について、ルフスのちょっと変わった解釈を、しかも著作別(つまりは年代別)の変化の様子を交えつつ詳しく紹介している。というわけで早速、若干のメモ。
年代的に最も早いらしい『自然学注解』(1235年頃)では、時間論において興味深い考察を行っている。「今」について、現世的(時間的)「今」と永遠の「今」の二つがあるとし、この後者は過去の終わりでも未来の始まりでもない、まさしく永遠の相のもとにある「今」ということとされる(すなわち神の「時」だ)。時間に始まりはないとするアリストテレスは、この両者を取り違えているということになる。ルフスはまた、過去は無限ではないという議論を取り上げているともいう(もとはフィロポノスにまで遡れるこの議論は、マイモニデスなどを経由して西欧に入り、オーベルニュのギヨームなどが取り入れているという。ルフスの場合、議論の仕方は先行するそれらのものとは異なるらしい)。さらにルフスは、アリストテレスの議論を取り上げてアリストテレス本人に反駁を加えたりもし、アリストテレスは真に解釈すれば世界は永遠であるとは言っていないはずだとまで主張するという。こうしたアリストテレスに「好意的な」解釈は、ヘイルズのアレクサンダーの影響によるものだそうな(!)。
続く『形而上学注解』(1238年以前)では、『自然学注解』のスタンスを残しつつも、全体的な見取り図は変化していて、アリストテレスへの「好意的」解釈はだいぶトーンが弱まっているらしい。どうやらこれはやはり同時代のロバート・グロステストの反アリストテレス的立場の影響によるものとのこと。なるほどグロステストは、アレクサンダーとは対照的なのか。で、ルフスへのその影響は1250年頃の『命題集注解』にいたっても明らかに見られる、と。ルフス自身の面白い議論も多少はあって、たとえば神の本質をそれ自体と見る場合と、外部の対象(被造物)との関係で見る場合との区別(創造によって神の本質は変化するのか、という問題への回答)などは、上の二つの「今」に重なる議論になっていたりするようだ。つまり神それ自体は永遠の今にあるものの、その発話は時間的秩序の中にありうる、というわけ。これもまあ、完全にオリジナルの議論ではなさそうだけれどね……。この論考の著者は、ルフスは自分の独自性こそ育まなかったものの、アリストテレス的な世界の永遠性に対する、その後も続く西欧の反論を系譜を先取りしていたと結論づけている。
うん、ルフスの質料形相論はどんな感じかが激しく気になるところだ(笑)。ちなみにこのルフスをめぐっては、邦語で読める論考として中村治「リチャード・ルフスの思想と写本」(2000)ほかがあるようだ。これは文献学的な研究で、大阪府立大学学術情報リポジトリ(こちら)からダウンロードできる。


