オートレクールのニコラ:認識と懐疑

ダラス・デネリー「オートレクールのニコラによる見かけの救済論」(Dallas G. Denery II, Nicholas of Autrecourt on Saving the Appearance, Nicolas d’Autrécourt et la Faculté des Arts de Paris – actes du colloque de Paris 19-21 Mai 2005, Ed. S. Caroti et C. Grellard, Stilgraf Editrice, Cesena, 2006)(PDFはこちら)という論考を読む。前にも取り上げたように、オートレクールのニコラは懐疑論的なスタンスでアリストテレスを批判していたわけだけれど、一方でたとえば認識論に関しては、対象物の実在とその視覚的な見え方との一致(「見えるものは存在し、真理に見えるものは真理である」)を擁護する議論を展開しているという。それがどういうスタンスで、ニコラの中にどう位置づけられるのかをまとめたのがこの論考。この問題はドゥンス・スコトゥスの直観的認識の議論にまで遡る。スコトゥスは対象物の直接的な把握によって、その対象物の存在について明確な知識が得られるとした。これに疑問を寄せたのがペトルス・アウレオリで、非在の対象の直観的認識をも人はもつことができるという議論を構築してみせた。つまり非在であろうと、対象物が存在するかのように経験するのであれば、その経験を対象として直観的に知覚することは可能だというわけだ。このアウレオリの議論を受け継いでいるのが、ニコラが書簡でのやり取りをしたアレッツォのベルナールという人物。ニコラはそうした考え方に批判を寄せている。ベルナールの議論では偽の直観的認識がありうることになってしまうが、これをニコラは問題にする。ベルナールの論に従うなら、対象物の認識と対象物の実在は一致しないことになり、前者から後者を推論することも不可能になる。それでは極端な話、誰も何もわからないことになってしまう。世界の認識が失われてしまう。

そのためニコラは、そうした認識と実在の不一致を斥けることになる。代案としてニコラが提示したのは、偽の見かけを認めず、「見えるものは実在する」と主張することだった。この主張をニコラは「蓋然性が高い・確からしい」という留保をつけて示す。人は制約を抱えた存在である以上、実際に対象物そのものに触れることはできないが、少なくとも確からしさをもってその認識を得ることができる、というわけだ。見かけがあればこそ、認識は始まるし、また終わりもする。人は知覚を通じてしか世界を体験できない以上、その見かけを肯定しなけれが何も始まらない……。論文著者によれば、この蓋然性の議論はニコラの哲学的スタンスのすべてを貫いていて、たとえばアリストテレスの議論よりも原子論を支持する際などにも援用されているという。後者のほうが前者よりも説明的整合性があるがゆえに蓋然性も高い、とニコラは見なしているという。あらゆる哲学的議論は見かけの蓋然性にもとづく思弁でしかない、とニコラは考えているらしいのだけれど、結局その意図するところは、無益な論争から離れて聖書の言葉へと帰依するということなのではないか、というのが同論考の示唆するところだ。なるほど、こうしてみると、ニコラの懐疑論は信仰に裏打ちされた上での、相対主義的な哲学的視座ということになる。古代の懐疑論とはずいぶん趣を異にしていることが改めて浮かび上がる。