スアレス『形而上学討論集』から 7 (1)

またしても少し間が開いてしまったけれど、先に進もう。II.1.7の前半部分。例によって段落分けは訳出上適宜に行っている。今風にいえば、ある概念に明示的意味と共示的意味(今風に言うならばだが)が混在しているというような議論は、名前と概念との違いを踏まえていないのであり、概念が混淆的に理解されるのはむしろ、その概念が一義的に表すはずの第一のアナロギアに、認識がいまだ到達していないからなのだ、といった話になる……のだろうか(?)

7 <他の人々の議論は是認されない>−−。これに対し、部分的に混淆し部分的に区別されるような別種の概念があるとする議論は、今説明されるべき事象にとっては無用のものである。まず第一に、実体の概念が暗示的・混淆的な意味で偶有的な概念だと言うのは不適切な言い方であり、第一のアナロギアに固有の概念が第二のアナロギアとなる他のアナロギアの混淆的な概念であるというのは、たとえ多くの場合にそのように言われるにしても、一般的にこの上なく不適切だからだ。その多くの場合、同じ名前が、直接には第一のアナロギアを意味し、二義的に別のアナロギアを意味するかのように言われる。第一のアナロギアの形相的概念が混淆的に他のものを、それらが第一のアナロギアに類似もしくは類比の関係にある限りにおいて表すかのように、である。というのも、何かを明確に表すものは結果的に、ともかくも混淆的に類似する他のものをも表すと考えられるからだ。

だがこのことは、たとえわずかな重要性しかなく、言い方のせいなのだとしても、私には論証されたようには思われない。というのも、そのような概念、第一のアナロギアの適切かつ明確な概念は一つなのであり、それが形相的に表すのは第一アナロギアそのもの以外にないからだ。そのような場合、名前で比較するのでは正しくない。というのも、名前は命名のみによって意味するのであり、したがって一義的かつ適切に一つのものを意味する同じ名前は、転義によって別の二義的な意味対象を命名することができるからだ。

これに対し、事物の概念はごく自然にその事物それ自体を表す。したがって、第一のアナロギアの概念が、固有の理拠にもとづく固有かつ適切な概念であるならば、それが他のものを表すことはできないのである。よって、その認識はおのずとなされるものではなく、原初もしくは時宜に適う場合のように、その極限へと達しうるようなものとなる。かくして、第一のアナロギアへの類比、あるいは慣習の関係にもとづき、他のアナロギアが理解され名づけられることにもなるのである。このことから、第一のアナロギアの個別的かつ固有の概念は暗示的もしくは混淆的な概念である、と言うだけでは十分ではないのだ。[この節、続く]

マリオン思想への入門編

贈与の哲学―ジャン=リュック・マリオンの思想 (La science sauvage de poche)現象学のある意味での極北(という言い方をしてよいかどうかはともかくとして)に位置するジャン=リュック・マリオン。そのマリオンの国内初の入門編となる一冊が最近出たというので早速見てみた。石野卓司『贈与の哲学―ジャン=リュック・マリオンの思想 (La science sauvage de poche)』(明治大学出版会、2014)。三回の講演をまとめた小著だけれど、その思想の要となる「与え」(don)の現象を中心に、その主要な論点を平坦に語っていて好印象。とはいえ、贈与そのものについての議論を扱う第二講などは、比較のために持ち出しているデリダのほうにどうしても力点が置かれてしまう感じで、マリオン自体はやや霞んでしまいがちだったりもする(というのも、一般的な贈与が根源的に交換にしか行き着かないとする点で、どちらの議論もある程度オーバーラップするからだ。もちろんその先は、贈与の不可能性を説くデリダに対して、マリオンはより根源的な「与え」の可能性を開いていこうとする……)。でも、なんといっても重要なのは第一講。著者はマリオンの中心的な思想を簡潔にまとめるだけでなく、思想的な流れも考慮しつつ、さらに批判的な文言をも加えていく。たとえばこんな感じ。「存在」よりも何よりも根源的なもの(それ以上還元できないもの)として「与えられていること」を取り上げようとするマリオンは、それが私たちが通常は認識できない「飽和した現象」なのだと説き、この飽和した現象の代表例として、神学的な啓示(キリストの現れなど)があるとする。で、哲学的な議論の果てにいきなりそうした神学寄りの事例が差し挟まれることに、著者は違和感を口にする。けれどもここはもしかして、あるいはとても重要な点かもしれない、と個人的には思ったりもする。なぜマリオンがあえてそうしたものを持ち出してくるのか、そこに何が見据えられているのか、それなしには語れられないものなのか……などなど、そのポイントを中心に大きな問いが渦を巻いてくるかのようだ。もちろん、第三講ではそのあたりについて、マリオンの思想的変遷においてカトリック信仰が大きなウエートを占めていることとか、神の死というテーマを貫いてきた近代哲学の流れに抗おうとする野心が読み取れるとか、そういった説明も示されてはいる。でも個人的には、もっと思想の内部からのアプローチでの議論を読みたいようにも思う。また、それにも関連しそうだけれど、著者がハイデガーやレヴィナスなどとの関わりで触れているような、「呼びかけ」「応答」「責任」といった副次的なテーマも興味深い。いずれにしても現象学の神学的転回は(マリオンの「おかしいところ」でもあり「面白いところ」でもあると著者も述べているように)、問題含みでとてもスリリングな感じだ。そういえばマリオンのデカルト論はことごとく未読なので、そのあたりから改めて覗いてみようかとも思う。

知性単一論:「成立」の問題

アリストテレス知性論の系譜――ギリシア・ローマ、イスラーム世界から西欧へ最近出たばかりの小林剛『アリストテレス知性論の系譜――ギリシア・ローマ、イスラーム世界から西欧へ』(梓出版社、2014)にざっと目を通したところ。小著ながら、これはとても面白く読める。アヴェロエスの知性単一論がどのような様々な議論を経て提出されたのかという問題に、テキストの抜粋とそれらへの著者自身のコメンタリーを通じて接近していこうという好著。自省も込めて言えば、アヴェロエスの知性論を考える場合、ともすればほかの主要な注釈家の理論とどう違うかといった議論に始終してしまい、なにゆえに、あるいはいかにして、アヴェロエスがその議論を提出するに至ったのか、という視点が欠けてしまいがちなのだけれど(苦笑)、同書はそのあたりをきっちり押さえようと試みる。思想史の上っ面をなぞるのではなく、その議論の核心部分に追体験的に肉迫しようとしている、という感じかしら。そこがなによりも素晴らしい。導きの糸となるのは、おおもとのアリストテレスの議論だ。アリストテレスは、知性は「受動しない」(ἀπαθής)ものだが形相を「受容する」(δεκτικός)ものではあると述べる(『霊魂論』)。この受動(πάσχειν)と受容(δείκνυσθαι)の差を、著者は生成消滅の有無として、つまり現実態となったものが再び可能態に落ちてしまうことの有無として読み取る。するとここから、大きな問題が二つ生じると著者は言う。知性があらゆるものを認識する機能であるなら、知性はあらゆるものに対して可能態でなければならないが、そんなものが果たしてありうるのかという問題、あるいはその知性がいったん現実態を受け取ってしまうと、あとから得られる対立的な別の現実態を受け取ったら生成消滅が起きるのではないかという問題だ。ここに、後世の壮大な注解の数々を紡ぐ端緒がある、と著者は見る。

メモ的に抜き出しておくと、知性が可能態とされることから、それを質料知性と呼び、それが個ではなく普遍を受け取ると考えて、問題を解決するどころか拡大してしまうアフロディシアスのアレクサンドロス。可能態としての知性を可能知性と呼び、それが現実態とされる能動知性と複合していると考えて、それらが永遠にすべてを認識していると説き、人の一般的経験からかけ離れてしまうテミスティオス。質料知性を身体の状態と見、それが様々な知識を諸原理からの推論で引き出すことによって、非物体的な永遠の存在になるという飛躍を想定していた(?)ファーラービー。さらに先行する議論の統合者としてのアヴィセンナ、そしてそれらを批判した先に自説を構築していくアヴェロエス。そこにアヴェンパーチェが意外に大きな影響をもたらしている、といった話が個人的には興味深い。そしてアヴェロエスの批判者として、触覚をモデルとする別様の認識論を練り上げるアルベルトゥス・マグヌス……。どれもいっそう議論を深めていってほしい豊かな水脈のよう。

エル・シードの実像

エル・シードの歌 (岩波文庫)以前BSで放映していたアンソニー・マン監督作品『エル・シド』(1961年)を録画で視た。『十戒』や『ベン・ハー』に続くチャールトン・ヘストンの大作ものなのだろうけれど、話の起伏がさほどなく凡庸な印象。エル・シドといえば『エル・シードの歌 (岩波文庫)』(これは1207年ごろまでに成立したものとされる)くらいしか知らないのだけれど、映画作品はそれがベースになっているわけではないようで、いくつかの伝説などをもとにヒーロー像を再構成したような作品になっている。ただ、1929年に『シードのスペイン』という著書を出しているラモン・メネンデス・ピダルが映画の時代考証に参加しているらしい。

で、これに関連してサイモン・バートン「エル・シード、クリュニー、そして中世スペインのレコンキスタ」(Simon Barton, El Cid, Cluny and the Medieval Spanish Reconquista, English Historical Review Vol. CXXVI No. 520, 2011)(PDFはこちら)という論文をざっと眺めてみた。エル・シードことロドリーゴ・ディアスは実在の人物らしいのだけれど、その記録は没後50年から100年後に書かれたものばかりで、実像については見解が大きく分かれるところなのだそうだが、そんな中、ロドリーゴの署名がある文書が一つだけ残っているのだという。それが、ジェロームというバレンシアのフランス人司教への寄付について記された1098年の譲渡証書なのだとか。同論文はその文書を手がかりに、当時の教会の状況などを踏まえつつ、ロドリーゴの実像を浮かび上がらせようとするなかなか刺激的な一篇。上のメネンデス・ピダルの話もここに記されている。いずれにしても、そうしたエル・シードのキリスト教的英雄としてのイメージは後世の産物。では上の証書の真偽はどうなのかという話も当然出てくる。論文著者は書体や年号記述、さらに内容面などを引き合いに、それが真正なものであるという仮説を支持している。興味深いのは、寄付の宛先とされるフランス人司教ジェロームの存在だ。

バレンシアの教会に採用されたのはクリュニー修道会の若いフランス人聖職者だったというが、その採用の背景には11世紀の教会改革があったといい、さらにはイベリア半島の教会に及んだ「西欧化」の一環と見ることもできるという。クリュニー修道会については今でこそ、第一回の十字軍の結成やリコンキスタにおいて果たした役割は限定的だったとされるようになったというが、イベリア半島においては例外的に影響力をもち続け(寄付のネットワークや世俗のサポーターたちなどを通じて)、ヒスパニックの王国の政治やイスラム世界との紛争に密接に関与していたという。レオン=カスティーリャ王国はクリュニー修道会の重要な収入源をもなしていた、と。一方、この証書から浮かび上がるロドリーゴ本人の肖像は、『エル・シードの歌』のような、レオン=カスティーリャ王アルフォンソ6世の忠実な臣下というよりも、自分の領土の統治と領主としての称号を主張するような、独立志向の高い人物のイメージだという。ジェロームとロドリーゴの両者が置かれた状況から、教会はジェロームを通じてロドリーゴのバレンシアの立場を正当と見なし、ウルバヌス2世はトレドの支配権からの免属を認めるなどの、証書にまつわる動きが理解できるのだと論文著者は主張する。

セクストス・エンペイリコス

Outlines of Pyrrhonism (Loeb Classical Library)懐疑論の系譜ということで、少し前からセクストス・エンペイリコス(前2世紀)の主著『ピュロン主義概要』をLoeb版で読んでいる(Outlines of Pyrrhonism (Loeb Classical Library), tra. R.G. Bury, Harverd Univ. Press, 1933)。まだ第一巻が終わったところ。一巻はピュロン主義(懐疑論)の概要をまとめた後、エポケー(判断停止)に至る一〇の方途ほかを示し、さらにピュロン主義が用いる表現の解説が続き、その後、他の哲学各派との違いを列挙していき、最後にアカデメイアとの違いを提示するという構成になっている。個人的に興味深いのは、前半の主要部分を占める、エポケーに至る方途だ。伝統的な一〇の方途とは、次のような差異にもとづくものとされる。(1)動物性、(2)人間性、(3)感覚器官、(4)環境要因、(5)場所、(6)混成、(7)対象の量や構成、(8)関係性、(9)一貫性・稀少性、(10)倫理・慣習。これに後からのものとして、論理学的な五つの方途(矛盾、無限後退、相対性、仮定、循環論法)、さらに認識論的な二つの方途(直接的な対象把持の不可能性、他の事物を手段とする対象把持の不可能性)が付加されている。いずれにせよ、これらの諸要素によって事物(対象)は不確定なものであることが喚起され、結果的に判断停止という宙吊り状態に置かれなくてはならなくなる。エンペイリコスが描くエポケーは、このように広く網羅的で、ある意味徹底している。それはなんらかの真理を抱く哲学諸派を、ドグマティストとして一蹴しているところからも窺える。一方でエポケーはその都度の、さしあたっての平静を保つための優れた方途であるようにも見え、それはとても慎重な議論でもある……。とくにそのあたりの慎重さを中心に、さらに二巻以降の議論の深まりに注目したいと思っているところだ(面白い箇所があればメモを取ろう)。

ちなみに、17世紀のガッサンディも研究していたというこの懐疑論だが、『ケンブリッジ・ルネサンス哲学史』(The Cambridge History of Renaissance Philosophy, ed. C. B. Schmitt et al. Cambridge Univ. Press, 1988)の付録の記述によると、エンペイリコスのテキストは部分的なラテン語訳が中世からあったものの、ギリシア語の写本がイタリアで出回るのは15世紀初頭からで、サヴォナローラのサークルで本格的な研究がなされたという。ピコ・デラ・ミランドラとかもエンペイリコスのテキストを多用しているのだとか。アンリ・エティエンヌとジェンティアン・エルヴェによるラテン語訳(1562)を経て、モンテーニュ以降、16世紀後半には様々な論者がそれを活用するようになり、1621年にようやくギリシア語のテキストがフルに印刷本として刊行される(別の資料には1617年とあったりもするが……このあたりは不明)。