現象学のある意味での極北(という言い方をしてよいかどうかはともかくとして)に位置するジャン=リュック・マリオン。そのマリオンの国内初の入門編となる一冊が最近出たというので早速見てみた。石野卓司『贈与の哲学―ジャン=リュック・マリオンの思想 (La science sauvage de poche)』(明治大学出版会、2014)。三回の講演をまとめた小著だけれど、その思想の要となる「与え」(don)の現象を中心に、その主要な論点を平坦に語っていて好印象。とはいえ、贈与そのものについての議論を扱う第二講などは、比較のために持ち出しているデリダのほうにどうしても力点が置かれてしまう感じで、マリオン自体はやや霞んでしまいがちだったりもする(というのも、一般的な贈与が根源的に交換にしか行き着かないとする点で、どちらの議論もある程度オーバーラップするからだ。もちろんその先は、贈与の不可能性を説くデリダに対して、マリオンはより根源的な「与え」の可能性を開いていこうとする……)。でも、なんといっても重要なのは第一講。著者はマリオンの中心的な思想を簡潔にまとめるだけでなく、思想的な流れも考慮しつつ、さらに批判的な文言をも加えていく。たとえばこんな感じ。「存在」よりも何よりも根源的なもの(それ以上還元できないもの)として「与えられていること」を取り上げようとするマリオンは、それが私たちが通常は認識できない「飽和した現象」なのだと説き、この飽和した現象の代表例として、神学的な啓示(キリストの現れなど)があるとする。で、哲学的な議論の果てにいきなりそうした神学寄りの事例が差し挟まれることに、著者は違和感を口にする。けれどもここはもしかして、あるいはとても重要な点かもしれない、と個人的には思ったりもする。なぜマリオンがあえてそうしたものを持ち出してくるのか、そこに何が見据えられているのか、それなしには語れられないものなのか……などなど、そのポイントを中心に大きな問いが渦を巻いてくるかのようだ。もちろん、第三講ではそのあたりについて、マリオンの思想的変遷においてカトリック信仰が大きなウエートを占めていることとか、神の死というテーマを貫いてきた近代哲学の流れに抗おうとする野心が読み取れるとか、そういった説明も示されてはいる。でも個人的には、もっと思想の内部からのアプローチでの議論を読みたいようにも思う。また、それにも関連しそうだけれど、著者がハイデガーやレヴィナスなどとの関わりで触れているような、「呼びかけ」「応答」「責任」といった副次的なテーマも興味深い。いずれにしても現象学の神学的転回は(マリオンの「おかしいところ」でもあり「面白いところ」でもあると著者も述べているように)、問題含みでとてもスリリングな感じだ。そういえばマリオンのデカルト論はことごとく未読なので、そのあたりから改めて覗いてみようかとも思う。
で、これに関連してサイモン・バートン「エル・シード、クリュニー、そして中世スペインのレコンキスタ」(Simon Barton, El Cid, Cluny and the Medieval Spanish Reconquista, English Historical Review Vol. CXXVI No. 520, 2011)(PDFはこちら)という論文をざっと眺めてみた。エル・シードことロドリーゴ・ディアスは実在の人物らしいのだけれど、その記録は没後50年から100年後に書かれたものばかりで、実像については見解が大きく分かれるところなのだそうだが、そんな中、ロドリーゴの署名がある文書が一つだけ残っているのだという。それが、ジェロームというバレンシアのフランス人司教への寄付について記された1098年の譲渡証書なのだとか。同論文はその文書を手がかりに、当時の教会の状況などを踏まえつつ、ロドリーゴの実像を浮かび上がらせようとするなかなか刺激的な一篇。上のメネンデス・ピダルの話もここに記されている。いずれにしても、そうしたエル・シードのキリスト教的英雄としてのイメージは後世の産物。では上の証書の真偽はどうなのかという話も当然出てくる。論文著者は書体や年号記述、さらに内容面などを引き合いに、それが真正なものであるという仮説を支持している。興味深いのは、寄付の宛先とされるフランス人司教ジェロームの存在だ。
ちなみに、17世紀のガッサンディも研究していたというこの懐疑論だが、『ケンブリッジ・ルネサンス哲学史』(The Cambridge History of Renaissance Philosophy, ed. C. B. Schmitt et al. Cambridge Univ. Press, 1988)の付録の記述によると、エンペイリコスのテキストは部分的なラテン語訳が中世からあったものの、ギリシア語の写本がイタリアで出回るのは15世紀初頭からで、サヴォナローラのサークルで本格的な研究がなされたという。ピコ・デラ・ミランドラとかもエンペイリコスのテキストを多用しているのだとか。アンリ・エティエンヌとジェンティアン・エルヴェによるラテン語訳(1562)を経て、モンテーニュ以降、16世紀後半には様々な論者がそれを活用するようになり、1621年にようやくギリシア語のテキストがフルに印刷本として刊行される(別の資料には1617年とあったりもするが……このあたりは不明)。