スコトゥス:意志と知性

La Cause Du Vouloir Suivi De L'objet De La Jouissance (Sagesses Medievales)先日のスコトゥス本『意志の原因』から再びメモ。今度は表題となっているメインのテキスト三種。いずれも同じ「意志の行為の原因は、意志そのもの以外にあるか」という問題を扱っている異本。三つのテキストはそれぞれ『レクトゥーラ』第二巻二五章、『パリ講義録(レポルタータ)』第二巻二五章、『オックスフォード書(opus oxoniense)』第二巻二五章だ。ざっと目を通しただけでも、これらの議論は微妙に異なっていることがわかる。意志の原因について、『レクトゥーラ』では意志の行為の原因として、意志そのもののほかに、認識された対象、つまりは対象を認識する知性の働きも原因の一端をなしているとして、比較的高い比重をそちらにも振り分けているように見える。意志の行為は、いわば意志と知性との協働という形で生じるというわけだ。ところが『レポルタータ』になると、知性はあくまで補佐役のような位置づけへと後退し、意志の行為の原因は意志そのもののみとされている。同書冒頭の解説(フランソワ・ロワレ)によると、『レクトゥーラ』と『レポルタータ』は成立時期が少し違い、前者が1299年から1300年にかけて、後者は1304年ごろとされている。つまりスコトゥスの意志論にはその数年の間に変化が生じていたということになる……のかしら。解説によれば、スコトゥスの意志論はどう変化したのか、そもそも変化があったのかという問題をめぐっては、これまで様々な論者が解釈を示してきたようだが、ロワレ自身は、どうやらそうした変化については否定的なようだ。

問題となるのが、スコトゥスの手によるのではないという『オックスフォード書』だ。同テキストのスタンスは微妙で、「意志以外に、意志の全体的な原因をなすものは何一つない」と記されるなど、意志の原因性を強調しているものの、一方では対象・知性についても、それを部分的原因とする議論に比較的大きな部分が割かれている。そんなわけで、解説にあるように、一方では「意志は部分的原因にすぎない(?)」というスタンスも浮かび上がってくる。このテキストは実は一七世紀のスコトゥス派による再構成版ということなのだけれど、「意志の行為は意志そのもの以外に原因をもたない」とするスコトゥスの自由意志論が広く知られるようになったのはこの版によるところが大きいのだという……少なくとも通説的には。けれども上の事態は、その通説とは矛盾してしまう。再び解説によると、一七世紀のテキストに付随していた注解でもそれはすでにして悩ましい問題にだったらしい。「意志のみが全体的原因をなしうるが、知性が部分的な原因をなすことを排するものではない」といったコメントがついていたりするようだ。同解説はさらに歩を進め、他の箇所も参照した上で、スコトゥスが厳密に「意志が意志の全体的な原因である」と断じた箇所はないことを指摘している……。

スコトゥスの愉悦論から

La Cause Du Vouloir Suivi De L'objet De La Jouissance (Sagesses Medievales)ドゥンス・スコトゥスのテキストも久々に見ている。モノは『意志の原因』『愉悦の対象』という二つの論考を収録した仏訳本(La Cause Du Vouloir Suivi De L’objet De La Jouissance (Sagesses Medievales), trad. François Loiret, Les Belles Lettres, 2009)。そういうタイトルの独立した論考があるのではなく、最初のものは『命題集注解』第二巻の二五章、二つめは同じ注解書の第一巻第一章第一部問一をそれぞれのタイトルで収録したもの。どちらもスコトゥスの自由意志論の重要なテキストとされているけれど、とくに前者については大幅に違う三つの異本を収録していて資料価値も高い。さしあたり、その三つの比較(これはとても興味深いところなのだけれど)はとりあえず後回しにして、まずは二つめのタイトルである『愉悦の対象』を読んでみた。というわけで早速メモ。

スコトゥスが展開しているのは、愉悦の対象(すなわち神)はそれ自体で究極の目的であるということを証すための議論なのだけれど、その過程で、有限なものと無限のものとの関係性について触れている。愉悦の力が休まるのは、最も完全な存在者のもと、すなわち至高の存在者のもとにおいてだとされ(10節)、それはちょうど質料が内的な他の形相のもとにおいて休止するのと同様だと言われる(11節)。また、低位の知性が上位の知性を仰ぎ見るとき、その知性は上位のものを「有限」なものとして見るがゆえに、それを超越しうる何かを思惟することができ、かくして人間(の意志)はおのれに示される限定的な善を見つつ、より大きな善を求めることができるのだとも記されている(12節)。なるほど、無限のものへの志向性が有限なもののなかにすでに内在している、というのがスコトゥスの見解の要の部分ということらしい。そしてそれは自然本性的なもの、自然的理性によるものであって、神の似姿としての魂といった神学的な議論(信仰による議論)を持ち出す必要すらない、とスコトゥスは言う(13節)。哲学的議論にしかるべき位置づけがなされているというわけだ。

オリヴィの商業契約論

Pierre De Jean Olivi: Traite Des Contrats (Bibliotheque Scolastique)久々にペトルス・ヨハネス・オリヴィのテキストを眺めている。少し前に出ている、シルヴァン・ピロンによる羅仏対訳本の『契約論(tractatus de contractibus)』(Pierre De Jean Olivi: Traite Des Contrats (Bibliotheque Scolastique), trad. Sylvain Piron, Les Belles Lettres, 2012)。同書の解説によれば、『契約論』はオリヴィの著作としては最後期(1296年ごろ?)に書かれたものではないかということだが、これまたどこか時代に対して先進的な印象で、なかなか面白い。まだ第一部の売買契約についての議論を見ただけだけれど、価格の決定がいかになされるべきかを正面切って論じていて、価格の本質が使用価値にあることや(8節)、その価値が稀少性によって高まること(10節)などをするどく指摘してみせる。一方でその価格決定が共通善に照らして評価されるべきことをも主張し(24節)、つまりは市民社会がその評価をするべき立場にあることも指摘している(26節)。このあたりのバランスは個々のケースによるようで、物資が不足するような事態において売り手がその物資の価格を上げるような場合については、それが共通善に反する(高利をなすなど)のであれば認められないとしているけれど、一方で学問のために高値で買った書物が後に値が下がったものの、当初の価格で転売したいと考える場合や、買い手がつかないために家屋を評価額よりも安く売るような場合については、(社会的な)評価額を逸脱しても不正とは見なされないとしている。全体としての理念(共通善に即した適性価格の考え方)を貫きつつも、オリヴィの考察はなにやら時にとても具体的かつ実利的なものに思える。そういうしなやかさが、ここでもまた印象的だ。

グロステストをモデリング?!

わーお。一見とんでもなくキワモノに見えるものの(苦笑)、これはこれでとても興味深い研究だ。リチャード・バウワーほかによる「中世の多元宇宙:一三世紀のロバート・グロステスト宇宙論の数学的モデリング」(Richard G. Brower et al., A Medieval Multiverse: Mathematical Modelling of the 13th Century Universe of Robert Grosseteste, Nature, Vol.507, 2014)。今メルマガのほうで読み始めているグロステストの『光について』(De luce)が描く、第一形相としての光の拡散による物質世界を延長と、それによる諸天の形成というヴィジョンを、数学的なモデリングでもって描き出してみようというもの。先に西川アサキ氏によるライプニッツのモナドロジーのモデリングがあったけれど、これもある意味で同じような学際的研究。グロステストは『光について』で、光(lux)が質料に次元的な延長をもたらすものの、質料の半径(つまりは光の放射域だ)が増長につれて密度が漸減するとし、それが最小密度になったところがその限界域になると考える。その限界域では質料と光が合わさった完全状態が生じ、こうしてできたものが第一の天球だとされる。するとそこから別の種の光(lumen)が球の中心に向けて発せられ、不完全な質料(それは純粋ではなく、不透明だ)をさらっては圧縮していく。こうして内側の質料も漸進的に完全なものとなり限界点に達すると、そこで第二の天球が生じる。アリストテレスのコスモロジーでは第一天とされる恒星天だ。次にその第二の天球から同じようにlumenが発せられ……この繰り返しで最終的には月の天球(第九の天球)までが作られる。最後の月下世界では、もはやlumenの発出は十分ではなく、完全な物体が宿す円周運動ができない……。

こうしたlumenの動きとその減速要因などを、数学的なモデルで表し、コンピュータシミュレーションにかけてみるというのがこの論文の主要な報告内容だ。門外漢なのでモデルの細かい点についてはコメントできないけれど、かなり面白い結果が出ていることはわかる。そのままではlumenが形作る天球があまりに多くなりすぎるのだという。それを制限するためには、lumenの強度と不透明性が相当高くなければならないのだといい、結果的に、限定数の天球をもつ安定的な宇宙というのはかなり特殊なパラメータの結合状態で、きわめて例外的であることが示されている。なるほどねえ。同論考は、アンセルムスなどは神学的議論の中で、複数の世界(多元宇宙)の可能性について議論しているとした上で、ではグロステストはどの程度、他の世界の可能性について考察していただろうかと問うているが(13世紀を通じて、そうした可能世界についての議論が存在すると指摘している)、そのあたりはまさしく気になるところだ(笑)。

ペトルス・アピアヌス(ペーター・アピアン)『宇宙形状誌』の挿絵(1539)
ペトルス・アピアヌス(ペーター・アピアン)『宇宙形状誌』の挿絵(1539)

ヒューム論への取っ掛かり

ヒューム (ちくま学芸文庫)ドゥルーズとアンドレ・クレソンなる人物との共著とされる小著ヒューム (ちくま学芸文庫)』(合田正人訳、筑摩書房)を読んでみた。ドゥルーズのカント論がそうだったように、ここでもヒュームの思想にある種の一貫した流れ、全体を通じての思想的命脈を掘り下げるという作業がなされているようだ。その筋道の一つはもちろん複合的観念の成立という問題。観念がいかに束をなすかという議論は、複合的なものが単純なものから成るという考え方において原子論とも結びつくし、さらにはニュートン的引力の考え方とも関係する(引力がどんなものかはわからなくても、物体同士が引き合うことはわかるように、観念同士を結びつけるものがわからなくても、観念同士が結びつくことはわかる、とされる)。それを突き詰めていくと「実体」なるものの存在を否定するところにまで至り、さらには自己の実体性までうち捨てられる。その先に残るのは想像力以外にない、ということに。後半では、芸術・道徳・宗教がもつ意味合いが、観念を束ねる想像力との絡みで検討されている。そこでドゥルーズが前面に出してくるのは、相反するもの同士の表裏一体の関係性だ。拡張と矯正、自然と人為、さらには偶然的なものと一般的なものなどなど。たとえば道徳性について。自然な「同情・共感」は「道徳的一般性に至る」とされるものの、「道徳的一般性に至るためには、同情・共感はその広がりを制限しなければならない」(p.67)といい、そこに図式ないし規則(正義という)という形で人為的なものを持ち込まなければならないという逆説が強調される。複数の特殊で偶有的な利害を損なわずに道徳性を全体に行き渡らせるには、一般規則が必要となる。けれどもそのような一般規則(それは所有の権利、所有の安定を意味すると言われる)は、広がりによって薄まっていく情念の自然な強度を保つために、人為的な補完(忠誠だと言われる)が必要だとされる。正義は目的ではなく、情念を満足させるための手段であり、情念の満足は人為的な満足しかないのだという。

訳者による解説も読み応えがある。「共著」の割り振りについての推論、「超越論的経験論」の出自(デリダが明かすにように、直接的にはフッサールに由来するもの……なのか?)、ヒュームの思想的受容の系譜、ヒュームとシステム論、ドゥルーズ解釈によるヒューム経験論の射程などなど。おそらくこの解説だけでも、微妙に取っつきにくい(と個人的にも思う)『経験論と主体性』への良い手引きになっている印象で、なかなかお買い得なのではないかと思う(笑)。