知性単一論:「成立」の問題

アリストテレス知性論の系譜――ギリシア・ローマ、イスラーム世界から西欧へ最近出たばかりの小林剛『アリストテレス知性論の系譜――ギリシア・ローマ、イスラーム世界から西欧へ』(梓出版社、2014)にざっと目を通したところ。小著ながら、これはとても面白く読める。アヴェロエスの知性単一論がどのような様々な議論を経て提出されたのかという問題に、テキストの抜粋とそれらへの著者自身のコメンタリーを通じて接近していこうという好著。自省も込めて言えば、アヴェロエスの知性論を考える場合、ともすればほかの主要な注釈家の理論とどう違うかといった議論に始終してしまい、なにゆえに、あるいはいかにして、アヴェロエスがその議論を提出するに至ったのか、という視点が欠けてしまいがちなのだけれど(苦笑)、同書はそのあたりをきっちり押さえようと試みる。思想史の上っ面をなぞるのではなく、その議論の核心部分に追体験的に肉迫しようとしている、という感じかしら。そこがなによりも素晴らしい。導きの糸となるのは、おおもとのアリストテレスの議論だ。アリストテレスは、知性は「受動しない」(ἀπαθής)ものだが形相を「受容する」(δεκτικός)ものではあると述べる(『霊魂論』)。この受動(πάσχειν)と受容(δείκνυσθαι)の差を、著者は生成消滅の有無として、つまり現実態となったものが再び可能態に落ちてしまうことの有無として読み取る。するとここから、大きな問題が二つ生じると著者は言う。知性があらゆるものを認識する機能であるなら、知性はあらゆるものに対して可能態でなければならないが、そんなものが果たしてありうるのかという問題、あるいはその知性がいったん現実態を受け取ってしまうと、あとから得られる対立的な別の現実態を受け取ったら生成消滅が起きるのではないかという問題だ。ここに、後世の壮大な注解の数々を紡ぐ端緒がある、と著者は見る。

メモ的に抜き出しておくと、知性が可能態とされることから、それを質料知性と呼び、それが個ではなく普遍を受け取ると考えて、問題を解決するどころか拡大してしまうアフロディシアスのアレクサンドロス。可能態としての知性を可能知性と呼び、それが現実態とされる能動知性と複合していると考えて、それらが永遠にすべてを認識していると説き、人の一般的経験からかけ離れてしまうテミスティオス。質料知性を身体の状態と見、それが様々な知識を諸原理からの推論で引き出すことによって、非物体的な永遠の存在になるという飛躍を想定していた(?)ファーラービー。さらに先行する議論の統合者としてのアヴィセンナ、そしてそれらを批判した先に自説を構築していくアヴェロエス。そこにアヴェンパーチェが意外に大きな影響をもたらしている、といった話が個人的には興味深い。そしてアヴェロエスの批判者として、触覚をモデルとする別様の認識論を練り上げるアルベルトゥス・マグヌス……。どれもいっそう議論を深めていってほしい豊かな水脈のよう。