「エクリチュール」から「ライン」へ?

ラインズ 線の文化史ティム・インゴルド『ラインズ 線の文化史』(工藤晋訳、左右社)をほぼざっと読み。テーマ自体は久々に心躍るものだ。人類が紡いできたなにがしかの「線」に着目した横断的な文化人類学ということなのだけれど、これって30年ほど前ならフランス語の「エクリチュール」(もともとは「文字」とか「書きっぷり」のことだけれど、敷衍されて線刻・刻印行為などをも指したりしてきた)の概念で包摂されてきたテーマ系そのもの。けれどもそこはアングロサクソン流、というべきか、線刻行為としての動的な概念だったエクリチュールは、ここではより静的というか、現象面を重視した「ライン」という概念に包摂されている。でも、たしかにそういう現象面の重視によって、エクリチュール概念それだけでは取りこぼしがちだった(あるいはうまく展開できていなかった?)領域を拾い上げていることも事実だ。「ライン」概念は、エクリチュールの専売特許みたいなものだった「痕跡」「軌跡」概念のほかに、「糸」の概念でもって、布やその他(もちろん文章のテキストも含まれる)の「紡ぐ」「結ぶ」行為をもフルに射程に収めている。かくして(かつてのエクリチュール論もそれなりにそうだったけれど)この書は、文様から地図から系統樹、さらには絵画や書道までをも柔軟にカバーしていく。

でも、同書に全体的に散りばめられている文明批判的な言説には、多少の違和感がないわけでもない。ここでの文明批判とはつまり近代の批判だ。近代の変革として最大のものは、写本などの筆記の文化から大量生産可能な印刷文化への移行だと捉えられている。そうした近代の変革によって、ラインを作るという連続した身振りは切断され、点の集まりにすぎなくなったというわけだ。切断の一例として、たとえば旅の変質が挙げられている。散策(それもまた軌跡をなす行為だ)は絶えず動き回り、徒歩の旅行者は運動そのものを紡いでいく。それは土地との関わりという意味でも豊かな体験だ。ところが近代的な輸送のシステムは、人を点としての場所から場所へと移動させてしまう。点と点が連結されるだけだというのだ。移動と知覚との親密なつながりが、そこでは消失していまう、とインゴルドは言う……。でも、たとえ中間の場所での体験がなくなるとしても、輸送先での徒歩移動は依然残るのだし、それはそれでまったく新たな移動と知覚のつながりをもたらす、とも言えるように思える。さらに、こうしたことは、印刷文化やその他の産業資本主義の体制などに関わる著者のほぼすべての批判的言説に対して向けることもできそうだ。失われる身体性・身振りのようなものは、技術的世界のただ中にあっても奇妙な形で回帰してくる。もちろん技術的世界におけるその身体性の布置は、それ以前にはなかったものかもしれない。でも、どこかノスタルジックに(?)身体性や身振りを言いつのるよりも、そうした新しい布置の中に、古くからの身体性を改めてどう位置づけるか、あるいはどう位置づけてきたのかを問うほうが、よほど建設的だし重要だ。その意味では、逆にウォルター・オングへの反論(刻印(印刷)こそが身振りと軌跡の繋がりを断ち、言葉を物象化したのだというインゴルドの説)も、少し控えめに受け止める必要がありそうに思えるのだが、どうだろうか……。