先日、ちょっと仕事の関係もあって、国民主権と人民主権の違いについてネット検索をかけてみた際、金子泰子「「国民主権」と「人民主権」−−フランスの共和主義運動に見られる二つの君主主権否定原理」(お茶の水史学、1998-08)(PDFはこちら)という論考を見てみた。なるほど、革命期の主権概念の微妙な錯綜関係が興味深い。これに従うなら、国民主権はあくまで議会重視・議会主権的な立場をいい、人民主権では直接民主制の理想が掲げられる。リアルポリティクスにあっては、両者はそれぞれに利点と問題とを抱えつつ、そう簡単に理想を実現できない。論文はさらに主権者的な意識を欠いた第三のグループというのが析出されるとして、それが民衆の抗議行動の論理に似ていると述べている。現実的な政体の残余の部分には、いずれにしても情念的な運動とそれを理論化したものが配置される、というわけか。
そういえば人民主権のおおもとはルソーだったっけ……ということで、少し前に刊行されたブリュノ・ベルナルディ『ジャン=ジャック・ルソーの政治哲学: 一般意志・人民主権・共和国』(三浦信孝編、永見文雄ほか訳、勁草書房)の前半を眺めてみた。基本的には講演用のテキストの翻訳のようだが、著者のスタンスは文献を駆使した実証的研究で、その意味ではとても興味深い。とりわけ面白いのが、ルソーの政治思想における世論の位置づけについて論じた第三章。一般意志が立法の形で主権者の表明をなすのに対して、世論はその情念的な価値の表明をなすのだという。前者が理性的・合理的協議に与るものだとすれば、後者はむしろ感情面を手当てする。一般意志がもたらす法律への感情的な同意を担うという意味で、世論は前者を補完する、というのだ。で、まさにそこに、ポピュリズムに陥らない政体の可能性が見られるというわけだ。一般意志は特殊意志の一般化によって成立するとされるけれど、その一般化には社会化の情動が必要とも言われている(第一章ほか随所で指摘されている)。こうして見ると、情念的な次元の重要性とその手当てというのは、政治的近代の黎明期から密かに問題として掲げられ、すでにして考察を促していたということがわかる。