テロルの基本構造へ

パリの同時テロへの追悼・連帯としてフェイスブックのプロフィール写真をトリコロール化することは、個人的には別に悪くはないと思うのだけれど、中にはそれを「今回の出来事はテロじゃなく戦争だから」として批判する向きもあるようで(もちろん批判の論点はそれだけではないけれど)、どうもそのあたりの議論には微妙に違和感を感じてしまう……。テロル(恐怖)をまき散らすというそのイデオロギーの基本構造そのものを見据えた議論が、「戦争だから」という一言で後景に追いやられてしまう、取り上げられなくなってしまうのはどうか、と思うのだ。

The Metaphysics of Terror: The Incoherent System of Contemporary Politics (Political Theory and Contemporary Philosophy)そういう基本構造に迫ろうという一冊に、ラスムス・ウーギルト『テロルの形而上学』(Rasmus Ugilt, The Metaphysics of Terror: The Incoherent System of Contemporary Politics (Political Theory and Contemporary Philosophy), Bloomsbury Academic, 2012)があるようだ。これ、Google Booksで冒頭の序文などが読める(もちろん、例によって一部のページを除くが)。そこでの主たる議論によれば、テロリズムというのは基本的に政治的な定義以外になく、しかもそれは具体的に指すものを示すことのない無でありながら、恐怖をまきちらすという構造をもつ。それはどうやら、テロリズムが元来もつ「潜在性」の広がりにポイントがありそうだ……と。そのあたりを検討する意味で、著者は形而上学という言葉を出してくるのだけれども、それはかつての第一哲学のような、根源の一者を考えるようなものではもはやなく、むしろ最終哲学、他の科学との連携による形而上学の批判を通して形而上学を再考するといった営みになる、という。そうした批判的立場から、テロリズムが有する「潜在性」の構造を浮かび上がらせ、それによってその構造そのものを無化することができるのではないか、というのが同書の賭けとなる。そのための道具立てとして、同著者は中期以降のシェリングによる「顕在・潜在」の議論を援用する。これはなかなか興味深いお膳立てだ。さて、その後の展開はどうなるのか……。ちなみに同書の書評がこちらに。