ゾシモス『炉と器具について』第一書 9 – 11

9. このように、最初の人間は、われわれにおいては「トート」と、彼らにおいては「アダム」と呼ばれている。天使の言葉で呼ばれはしたものの、その一方で、天球全体から取り出した四つの文字=元素でもって、まさにそれを象徴的に、物体の意味において言われもした。「アルファ」は、日の出、空気を表し、「デルタ」は、日の入り、重さゆえに下へと沈み行くものを表す。(中略)「ミュー」の文字は、南中、物体の中央にあって成熟をもたらす火を表し、それはまた四つめの中央の帯にも及んでいる。

10. このように、目に見える彫琢において肉から成るアダムは、トートと呼ばれている。その中にある人間の部分、すなわち気息的人間には、高貴な名と通称とがある。高貴な名は、さしあたり私の知らぬところである。なぜなら、それを知っているのは見出されぬ者ニコテオスのみだからだ。通称では、フォス(死すべき存在=光?)と呼ばれる。それゆえ、これに伴って人間は「フォタス(死すべき者)」と言われるのである。

11. フォスが楽園にあって、運命(の神)に息を吹き込まれていたとき、それは悪しきところがなく影響を及ぼすこともなかったが、(司る者たちに?)説得されて、運命より生じ、四つの元素から生じたアダムを身に纏うことになった。フォスには悪しきところがなかったがゆえに、それを脱ぎ捨てることはなかった。彼ら(司る者たち)は、フォスを奴隷にしたことを誇りに思った。

– 四つの文字といいつつ三つしかないが、これはどうやら「ἀδάμ」のそれぞれの文字のことのようだ。αは東の空、δは西の空、もう一つのαが北を(?)、そしてμが南を表す、と。参照している仏訳注によれば、「アダム」の表記はヘブライ語では三つの語根になるので、この四つの照応はギリシア語にもとづいているものだろうという。また、この照応関係、言葉遊びは、『シビュラの託宣』(一世紀に成立)第三書などに明記されているものだともいう。
– 元素との照応では、最初のαが空気、δが土、次のαはおそらく水、そして最後のμが火に対応する。このあたりの照応関係はやはり言葉遊びなどをもとにしているというが、北と水がどう照応するのかといったあたりは不明なのだとか。
– 肉の表面の内部に気息的人間(魂ということか)がいるという発想も広範に流布している考え方。仏訳注ではプラトンの『国家』(589a)(ナグ・ハマディ写本に抄訳があるのだとか)のほか、新約聖書からもロマ書(7の22)やコリント書II(4の16)などが言及されている。
– 楽園にあったフォスを「説得する」その主語は不明。四つの文字=元素と取る可能性も指摘されていたりするものの(その場合は動詞が単数形になるのでは、という指摘もある)、仏訳注ではὀι ἄρχοντες(運命の神に仕える執行官のようなもの)と取る説を採用している。さしあたり、それにしたがっておく。

このところの緩慢な動き

● 先週後半から風邪で調子が今一つ。調子が悪いときはいろいろ面倒なことが重なるもので、今メインで使っているandroid携帯の調子まで悪くなった。playストアが反応しなくなり、さらに異様にバッテリの減りが速い……。Webで紹介されている対策(再起動しろ、から始まって、アプリのデータ削除をしろ、Googleなんちゃらという隠れアプリのデータを削減しろ……etc、果てはGoogleアカウントを一端消して登録しなおせ、まで)をいろいろ試すも一向に改善せず。工場出荷状態に戻すのはあまりやりたくないので、そうした一連の対策を何度も繰り返すが、やはりそのまま。

ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫)● でも、そんな中でもぼちぼちと本読み。習性というか何というか(笑)。佐々木中訳によるニーチェ『ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫)』(河出書房新社、2015)を読み始める。昔の竹山道雄訳(新潮文庫)などに親しんだ(詩句に乗れたかどうかは微妙だが)身としては、まさにモノトーンがいきなりカラーになったくらいの新鮮さを覚える。いきなりのこの詩情。

定本 夜戦と永遠 下---フーコー・ラカン・ルジャンドル (河出文庫)● 佐々木中氏と言えば、文庫版の定本 夜戦と永遠 下—フーコー・ラカン・ルジャンドル (河出文庫)』(河出書房新社、2011)の末尾を飾る「この執拗な犬ども」が、個人的にはとてもヴィヴィッドに反応させられた文章だったりする。最後の講義でキュニコス派のディオゲネスを取り上げたフーコーは、引用されるその文献的な乏しさにもかかわらず、種々の断絶を明らかにするというそれまでの姿勢から一転し、キュニコス的精神を西欧を貫く持続的なもの、連続の相として見出すというのだけれど、フーコーのそうした一種の高揚に、読み手としてとことん付き従おうとする著者の姿勢がなんとも言えない共感を呼ぶ……。これは徹底してゆっくりとした、濃密な時間を過ごす読書でなければたどり着けないような場所だ。読むという行為の悦楽と難しさを改めてかみしめさせる。

内省の構造――精神病理学的考察 (岩波オンデマンドブックス)|岩波オンデマンドブックス ● ずいぶん前から入手したいと思いつつ、古本でもものすごい値段がついていて見送っていた長井真里『内省の構造』(岩波書店、1991)が、内省の構造――精神病理学的考察 (岩波オンデマンドブックス)|岩波オンデマンドブックス』として出、それとともに古本も格安になった。というわけでさっそく購入。うーむ、これは聞きしに勝る重要文献かも。精神的な疾患の症例から、より一般的な深層の深みに入っていこうとする。たとえば第二章では、「つつぬけ体験」(思ったことが他人に伝わってしまうというサトラレ妄想)の症例分析から、言語化する手前の表出の蠢き、さらには自己の成立の構造にまで踏み込んでいく。まさに圧巻。

● さてandroid携帯。風邪の症状が治まってきたら、なんとそちらも少し調子よくなってきた。まず、バッテリを異様に喰っていたanndoroidシステムを、おそるおそる強制終了させたら、何度アカウントの再登録をしても同期が取れていなかったGoogleアカウントがとりあえず反応し出した。バッテリの減りが若干改善。さらにダメ押しでGoogleアカウントの再登録と再起動を繰り返したら、なにかの拍子にplayストアが反応し始めた。バッテリの減り具合もほぼ元通りに。何が問題でどうやってリカバリしたのか、まったく不明なのだが……(苦笑)。

現実と認識と言語と

あるようにあり、なるようになる 運命論の運命これも秋の期待作の一つだった、入不二基義『あるようにあり、なるようになる 運命論の運命』(講談社、2015)を読む。運命論を論理学方向の軸線でずらしていって何が見えるかを検証するという一冊。まさに知的なチャレンジだ。一般に運命論というのは、現在から未来にわたって任意の事象の発生・存在が決定済みであることを言うわけだけれど、「未来にわたって」というのは、過去から現在への時間の流れにおいて事象が決定済みとなっていることを、未来へも投影することを意味する。また、決定済みであるということは、可能性が開かれていないことを意味する。でも当然ながらそれらには反論も可能だ。というわけで、同書はこれらの点をそれぞれひたすら突き詰めていく。前者は、「時間の等質的な推移」と「時制的な視点移動」という原理を前提にしている(アリストテレスの運命論批判は、この原理自体を批判しないがゆえに不完全とされる)。後者は排中律で表される論理的な必然性が問題になっている(ここでもアリストテレスの批判は、論理的な必然性(あるかないか)に向けられるだけで、運命論が用いる「現実的な必然性」(現実にあるかないか)を捉え損なう、という)。ここで前者に対しては別様の時間理論(過去や現在に対する、無としての未来の断絶)を導入し、後者については現実性を取り込む形で議論は進めると、思いがけず(?)議論は大きく動きだす……。

これがまさに著者のメソッド。ややもすると論理学の煩雑な議論に始終しがちな議論を、その外にある認識や言語の問題を引き込んで開いていく。すると、様々な概念の拮抗、潰れ、空隙、そして特異点が明らかになっていく。そのあたりはまさに圧巻。現実というのは不明瞭なのっぺりとしたものであるのに、そこに認識主体がなんらかの認識を切り出し、言語に合わせてそれを操作するがゆえに、様々なものが析出されてくる、というわけだ。時制の問題もそうだし、事物の「必然的な」在り方というのもそう。運命論そのものに関しても、そこから析出されて明らかになるのは、運命論批判がどこまでいっても持ち続ける不完全性と、運命論自体がもつ捻れた不完全性だったりする……。

個人的に興味深いのは、後半で取り上げられているダメットの議論のうちの一つ。「遡及的な祈り」と名づけられた、すでに起こってしまっている事故で、身内が生存者に入っていますようにと祈るような場合。著者はここでも、遡及そのものについて考察してみせ、祈っている今の現在と、祈りが向けられる過去時点の現在とが重なることを指摘している。祈りの特殊性はまさにそこ、すなわち現在が「運命論的に」働くことにあるのだというのだが、同時にそこには一種のあきらめ、断念が含まれるともいう。このあたり、個人的にはジャン=ピエール・デュピュイの前未来形的に災害を先取りする議論(「すでに災害は起きてしまっているだろう」)にも重ねてみたい誘惑に駆られる。前未来の物言いを生きることもまた、二重の現在が重なって潰れるという意味で、運命論的な含みをもった構えということになるのかしら。

ゾシモス『炉と器具について』第一書 7 – 8

7. ゾロアストレスは、あらゆる高い知識と物質的言語の魔術を用いれば、個別的なものであれ普遍的なものであれ、運命のあらゆる悪を回避できると高らかに述べている。その一方でヘルメスは、『内観について』において魔術をやり玉に挙げ、次のように述べている。自分自身を知る気息的な人間は、たとえ素晴らしいことに思えようとも、何かを魔術によって正してはならないし、必然をねじ曲げてはならない。そうではなく、自然や決定(神の)のなすがままにし、おのれを探求することのみに従い、神を認識して、名づけ得ない三幅対をわがものとし、おのれの土くれ、すなわち肉体に対して運命がなすことを許容しなければならない、と。そしてこうも言う。そのように理解し、振るまえば、あなたは聖なる魂のためにあらゆるものになる神の子を観想するだろう、と。みずからを運命の領域から引き抜き、非物体的なものの領域へと移しかえるために、それがあらゆるもの、つまり神に、天使に、苦しみを受ける人間になるのを見るがよい。というのも、神の子は全能であるがゆえに、望むものすべてになれるからである。その子は父に従い、あらゆる肉体へと広がり、それぞれの知性を照らし、幸福なる場所へと押し出す。そこは、神の子が肉体的なものになる以前にいた場所である。(知性は)神の子に従い、その働きかけと導きとによって、その光へと向かうのである。

8. そしてあなたはビトスが記した石板を観想し、三倍偉大なプラトン、無限に偉大なヘルメスを観想するだろう。というのも、トート神は初源の聖なる言葉において最初の人間と解釈され、あらゆる存在の解釈者、あらゆる物体的なものの命名者とされているからである。だがカルデア人、パルティア人、メディア人、ヘブライ人は、その者をアダムと呼んでいる。その名については、処女の地、血のごとき大地、赤い大地、肉の血を表すとの解釈がある。その資料は、プトレマイオス朝の図書館に見出される。それらは(プトレマイオス二世が)エルサレムの高僧アセナスに(翻訳を)委託した際、神殿(図書館)のそれぞれ、とりわけセラピス神殿に置かれた。この高僧は翻訳者としてヘルメスを派遣し、ヘルメスはヘブライ語の作品をすべてギリシア語およびエジプト語に訳した。

– わざわざ気息的な人間とされているのは、気息(プネウマ)こそが魂の中核をなし、それのみが救済の対象になる、ということによるらしい(底本の仏訳注による。以下同)。この肉体・魂・気息は、その後に出てくる「三幅対」(トリアス)にもしかすると重なるのかもしれない印象……。
– ……とも思ったのだけれど、どうやらそうではないようで。その三幅対については様々な解釈があるらしい(当然ながら)。世界霊魂のことだとか(ライツェンシュタイン)、キリスト教的な意味(三位一体?)に取るべきだとか(スコット)……フェステュジエールなどは当初はキリスト教の重ね合わせと見なしていたが、後にはカルデア神託に出てくる、第一の絶対的な神、第二の世界創造の知性、第三の知性(役割などは微妙に|曖昧)の三幅対を考えるようになったとのこと。また、神・子・人間の三幅とする解釈もあるという(ジャクソン)。いずれにしても、キリスト教に限らず、三幅対の考え方は異教にも広く見出される……。
– 神の子の解釈も問題含み。これをロゴスとする解釈は、ヘルメス選書の『ポイマンドレス』で、ロゴスが神の子と一度だけ呼ばれているから、というのがその理由。ただ、そちらでのロゴスの役割は目下の文章のものとは重ならない……。ちなみに、グノーシス派のイエスと同一視する向きもあるという。

– ビトスについてはほかに言及がないということで、πίναξ ὃν καὶ βίτος γράψας(ビトスが書いた石板)ではなく、πίναξ ὃν Κέβητος γράψας とし、さらにこれをπίναξ ὃν Κέβης τε ἔγραψε(ケベスが書いた石板)と読むという解釈もあるという。テーバイのケベスの石板というのは現存していて、内容はストア派的な傾向の倫理学で、成立は1世紀頃とか。でもこれにも反論がある模様。より広範に受け入れられているのはビトスをビテュスとする解釈で、この場合のビテュスは、イアンブリコスが『エジプト秘儀論』で、アモン王に魔術を明かす預言者ということで言及している人物とされる。でも、ほかにもいろいろな可能性が示唆されているようだ。
– プトレマイオスの図書館は、プトレマイオス一世が作ったアレクサンドリア図書館。図書館は二つあり、一つはムセイオンのもので、宮廷内にあってエリートしか閲覧できなかった。もう一つはセラピス神殿にあり、そちらは一般に公開されていた。ここで示唆されているのはアレクサンドリア図書館で行われた聖書の翻訳プロジェクトのことだといい、もともとはプトレマイオス二世(前三世紀)が指示したもの。高僧アセナスという名もほかには見られないらしい。エルサレムの高僧といえばエレアザロスという名が一般的という。

古典詩への手引きの書

人間(ひと)とは何ぞ:酔翁東西古典詩話 (叢書・知を究める)今回の田舎行きでは、行きと帰りの新幹線ではこれを読んでいた。沓掛良彦『人間(ひと)とは何ぞ:酔翁東西古典詩話 (叢書・知を究める)』(ミネルヴァ書房、2015)。漢籍や西欧の古典詩まつわるエッセイ集なのだけれど、個人的には前者にはあまり縁がなく、後者についてもギリシア詩に真っ向から取り組めるほどには古典ギリシア語を読みこなせてはおらず、一部の哲学書を囓る程度でしかないけれども、いつかはアプローチしたいものと願っている。そんなわけで同書のとくに第二部は、碩学による古典詩案内の第一歩として興味深く読める。ギリシアが決して海洋民族などではなかった(第八章)、あるいはギリシアには秋を除く三つの季節感しかなかった(第一五章)といったちょっと意表をつく話(言われてみればその通りかと納得するのだけれど)、あるいはまたポール・ヴァレリーをもってしても古典の翻訳は難しいものであるといった指摘(第一四話)や、ユイスマンスの『さかしま』が呪縛となってキケロを味わい尽くしていないといった話(第一六章)などなど、はるかに卑近な例に移しかえるならば個人的にも大いに身につまされる話題も多い(苦笑)。詩と哲学の不和なんて話題もあり(第七章)、クセノパネス、パルメニデス、エンペドクレスなど、詩と哲学がまだ分離していないとされる著者たち、あるいは詩的な韻文による哲学の完成形としてのルクレティウスなど、両者が融合している事例が挙げられている。上の話にかこつけるなら、哲学書にもそれぞれ言葉のリズムのようなものは当然あるので、今のところはそれを味わおうとするのがせいぜいな輩としても、このあたり、目下じわじわと静かな刺激を受けているところ。