知識は正確に……

今日は雑感を。野暮用で田舎に行き、父親の墓がある寺を久々に訪ねたところ、新しい若い住職が着任したとのことで紹介された(いちおう檀家なので)。禅宗の場合、僧侶の中にも現象学や実存主義あたりを読み囓っている人が相当数いる印象があるのだけれど、この若手住職もそういう感じで、こちらがフランス語などをやっていると言うと、いきなりサルトルとかの名前を出してきて、話がなにやら説法みたいになっていった(苦笑)。ちょっと得意げにエポケーなどの用語を使い、ピロン主義がどうのこうの言ってきたりもするのだけれど、どうも懐疑主義のエポケーと現象学のエポケーが微妙に錯綜している印象で、この時点でこちらは少し白けてしまう。要は、現象世界のバイアスを取り除き、自己の根源(いわゆる仏性)に至る努力が現代人には必要なのだという<ありがたいお話>なのだけれど、それって現象学的にもほんの出だしの部分でしかなく、そこだけ力説されてもなにやら空しいのだが……。ちょっと退屈とのこちらの思いを無視するかのように彼はよどみなく喋り続け、「頭で考えるのではない、体験だ、感じることだ」(ブルース・リーか?)といった話とか、受け身に置かれた現代人は、本来備わっている無償で与える力、能動的に発出する力を取り戻さなければならないみたいな話とか(ドゥルーズ=ガタリあたりでも読んでもらいたいところだが)、シンプルな方法論としての呼吸法みたいなこと(シンプルだと力説する以上に神秘主義的だというところに思いは行っているのだろうか)を延々と30分以上も喋ったのではないかと思う。葬式仏教だけに始終しない、説法などを含んだ仏教の復興・復権がおそらくは念頭にあるのだろうけれど、熱意こそ感じられはするものの、世俗の者にする話としてはどうなのかという疑問も残る。うーん、こちらもあまり人のことはいえないけれど(苦笑)、教養の蓄え方、用い方で損をするのは残念すぎるし、話法ももっと柔軟であってほしいものだと思う。互いにもっと良い意味で枯れてからなら、じっくり話を伺いたいと思うかもしれないけれど。

無限小をめぐる攻防

無限小――世界を変えた数学の危険思想秋の注目本はいくつかあるけれど、これもその一つ。アミーア・アレクサンダー『無限小――世界を変えた数学の危険思想』(足立恒雄訳、岩波書店)。全体の3分の2くらいにあたる第一部を読んだところだけれど、これは実にヴィヴィッドに描かれた「不可分者」(一種の原子論)をめぐる攻防の物語。様々な登場人物(主人公?)たちが登場し、さながら群像劇のよう。話はプロテスタントの台頭から始まる。カトリックの反改革の先鋒となったのがイエズス会。そのイエズス会の中にあって、それまで低い扱いでしかなかった数学の地位向上に努めたという16世紀後半のクリストファー・クラヴィウスが第一の主要人物だ。カトリック勢力の秩序の立て直しという文脈の中で、数学こそがそうした秩序を体現するとしたクラヴィスは、伝統的なエウクレイデスの原論に依拠し、簡単な定理から徐々に複雑な図形を論証していくという幾何学を重視する。ところが折しもここに、ガリレオを中心とする「不可分者」の考え方、つまり線分は不可分な点の集まり、面は無限の線分の集まり、立方体は無限の面の集まりとする考え方が勃興する。秩序重視の伝統的数学に対して、これは現実世界からの着想を重視する立場で、著者は本文中で何度か、両者をそれぞれ「トップダウン」の数学と「ボトムアップ」の数学と呼んでいる。で、この後者の一派の中心をなすのは、ガリレオというよりもその弟子筋にあたる人々。まずは弟子の一人カヴァリエリが第二の主要登場人物となり、以後イエズス会側の論客(ギュルダン、タッケという第三、第四の主要人物)とこのガリレオ派(第五の主要人物としてのトリチェリなど)とが、熾烈な論戦を繰り広げていく。

興味深いのは、双方の勢力の浮き沈みが、時のローマ教皇庁や各国の諸勢力など巨視的なパワーバランスの布置によって左右されていること。著者はそうした政治史と数学史の話とを巧みにリンクさせて、重層的に描いている。これが実に読ませるところだ。そもそも不可分者の問題は単に数学の問題というだけでなく、世界の秩序や認識論、ひいては信仰そのものを賭すほどの大きな問題にリンクしている。そのためイエズス会は自前のコレジオでそれを教えることを徹底して禁じるし、一方でその信奉者たちはそこに、法則などの発見的役割といった新たな豊穣なメソッドを見出している。そんなわけで、一見些末なものでしかないように見える論争は、実は各人の陣営の存在意義や存続可能性そのものに関わる全面戦争の様相を呈していく。

不可分者の議論は実は14世紀ぐらいから様々な形でなされているのだけれど(以前これはメルマガでも少し見たが)、残念ながら同書は宗教改革から語り始めているためにそのあたりは扱っていない。でもそちら黎明期にもそれなりのドラマがあるはずなのだけれどね。ちなみに、同書の残りの第二部はホッブズやジョン・ウォリスがストーリーの中心となるようだ。

イアンブリコスと数学 2

前回はVI章あたりまでだったけれど、さらに先に進みざっとXV章あたりまで。まだまだ先は長い(笑)。一般に当時の認識論では、認識機能と認識対象とは相似の関係にあり、知性に対しては知解対象(νοητός)が、感覚に対しては感覚対象(αἰσθητός)(現実敵な個物)が対応する。で、知性とは別にそれを補佐する中間物として思惟と思惟対象(διανοντός)が来る。感覚の側にも中間物が設けられ、信(臆見)とその対象(πιστός)をもつ。かくして、四区分のできあがりだ(VIII章)。(もっとも、大きくは知解対象、思惟対象、感覚対象の三区分となる)。数学はこの思惟に対応する部分で、数学的対象は思惟対象ということになる(IX章など)。数学的な認識は魂に内在しているものであり、数学という営為ではそれを探求して発見にいたるわけなのだけれども、そもそも探求は学習(μάθησις)に端を発するのであり、それが数学のいわば語源をなしている、なんて話も(XI章)。その内在的な原理として、一と多があるが、それは対立物の原理をなしている。有限・無限、同一と差異、元素と類などなど。このあと、数学的対象の認識をめぐる諸相についての話が続いていく。

ここでついでながら、最近見たイアンブリコスの数学論の参考文献を挙げておく。クラウディア・マッジ「イアンブリコスの数学的実体論」(Claudia Maggi, Iambrichus on Mathematical Entities, in Iambrichus and the Foundations of Late Platonism, ed. E. Afonasin et al., Brill, 2012 )という論考で、総合的にイアンブリコスとその周辺を読み込んでいる労作。いくつかのポイントが整理されているが、そのうちの一つ(同論考の第四節)によると、すべてが一者からの発出であると考えるプロティノスに対して、イアンブリコスは一のほかに二(多をもたらす)をも原理に含め、二元論的な考え方へと戻っているのだという。