2005年08月29日

No.63

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.63 2005/08/27

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イスラム世界の経済論

以前BBCのニュースで、イスラム銀行が英国にオープンしたという話が報じられ
た際、その銀行の最大の特徴として利子収入を取らない点が挙げられていまし
た。中沢新一『緑の資本主義』なども、そうした利子の拒絶という点に、イスラ
ム経済がもつ反資本主義的なスタンスの核心部分を見ていました。ところが最近
刊行された加藤博『イスラム世界の経済史』(NTT出版)によると、この「利子
収入を取らない」というのは、原理主義的な解釈を取る立場なのだといいます。
利子を表すリバーというアラビア語には、同時に高利の意味があり、かつてはそ
ちらの意味に取るのが普通だったという話です。コーランによるリバーの禁止
が、高利ではなく利子そのものの禁止と解釈されるのは、ごく最近のことなので
すね。

『緑の……』は確かに、資本主義批判を前面に出すあまり、ややイスラムを理想
化しすぎているきらいがありました。とはいえ、イデオロギーとしての資本主義
とは別の形で、イスラム世界が豊かな市場経済を育んできたのも事実です。する
とやはり、両者の差異がどこから生じているのかという点が気になってきます。
『イスラム世界の経済』によれば、キリスト教世界とイスラム教世界がその後大
きく異なっていくそもそものきっかけは、「利子の取得を容認し、正当化するた
めの法的手続き」の違いにあるのだといいます。カトリックは教会法とは別の規
範で正当化し、イスラムはあくまでイスラム法内部で正当化していくのだ、とい
うわけですね。このあたり、西欧との比較論など、もっと詳しく知りたいところ
です。

『イスラム世界の経済』ではまた、イスラム中世の経済論についても簡単に振り
返っています。商業が盛んになったアッバース朝(8から13世紀)以後、商人の
利潤追求を擁護する論が登場し、後の14世紀には、イブン・ハルドゥーンが体
系的な記述を残しているといいます。ハルドゥーンは文明論的な視点で、近代経
済学の先駆けともいうべき労働価値説、社会分業論を展開していたのですね。

こうしたイスラム世界の先進性は、たとえばアヴェロエス(イブン・ルシュド)
にも見られるようです。カルメラ・バフィオーニ編『アヴェロエスとアリストテ
レスの遺産』("Averroes and the Aristotelian Heritae", Guida, Napoli,
2004)所収のドミニク・ユルボワ「アヴェロエスの貨幣観」という論考では、
貨幣を考えるにあたって意識的に時間概念を導入している点が、アヴェロエスの
斬新さなのだと論じています。貨幣へのコメントは『ニコマコス倫理学』への注
解に見られるといいます。アリストテレスのテキストを越えて、貨幣には交換と
尺度の機能のほかに、将来の取引を見越した蓄えの機能があることが示される、
というわけです。

西欧では、12世紀から13世紀以降に商業が盛んになるわけですが、その過程で
教会の教えと現実との軋轢が表面化していきます。当時はまたアラブ世界との交
流も盛んになる時期ですが、アヴェロエスのような貨幣論への時間概念の導入
は、西欧ではちょっと見当たらない気がします(実際のところ貨幣論・経済論そ
のものがほとんどない感じですが、どうなのでしょうね?)。ユルボワは上の論
考で、アル・マクリージー(14〜15世紀)とニコル・オレーム(14世紀)の貨
幣観が似ている事例を引き、アラブ世界と西欧世界のそれぞれに現れた経済論
は、書物の系譜的関係というよりも、両文明圏が同じような問題に対応する中で
生じた照応ではないか、との立場を取っています。上の『イスラム世界の経済』
では、西欧中心史観がさかんに批判されていますが、西欧の内部においても、た
とえばユダヤ教での経済観はどうだったのか、といった問題があるように思えま
す。12世紀ごろにはすでに排斥を受け、金貸しになることを余儀なくされてい
くユダヤ人ですが、どのような経済観・社会観を持っていたのでしょう?経済を
めぐる中世の動向は、なんだかまだ不明なことばかりです。今後の研究に大いに
期待したいところですね。


------中世の古典語探訪「ラテン語編」------
第13回:様態を表す副詞

前回は形容詞の比較級、最上級の話でしたが、不規則形もいくつかあります。
bonus - melior - optimus、malus - pejor - pessimusなどの不規則なものはそれ
ほど多くないので、ちゃんと抑えておきたいところです。(magnus、parvus、
propinquus、multiあたりの比較級、最上級を復習しましょう)。また、劣性の
最上級(最も〜ない)は、原形にminimeをつけるのでしたね。

今日の本題は形容詞から作る「様態の副詞」についてです。副詞ですから動詞の
補語になります。作り方は、第1類形容詞なら語根に-eの語尾をつける、第2種
形容詞なら-terをつけるというのが基本です。
miser -> misere(悲惨に)
doctus -> docte(賢く)
fortis -> fortiter(果敢に)
prudens -> prudenter(慎重に)

もちろん例外もいろいろとあります。bonus -> beneなどが代表例ですが、さら
に形容詞中性形の奪格(または対格)から作るものもあります。
facilis -> facile(容易に)
falsus -> falso(偽って)

名詞の奪格形が副詞として固定されたものもあります。
jus -> jure(合法的に)
fors -> forte(偶然に)

ほかにもいろいろな派生形として作られた副詞があります。fere(ほとんど)、
vix(やっとのことで)、praesertim(とりわけ)など、いろいろありますね。

これら様態の副詞の比較級、最上級も見ておきましょう。比較級はもとの形容詞
の中性形比較級と同じです。fortiterの比較級はfortiusになります。最上級はも
との形容詞の最上級の語尾を-eに変えます。fortiterの最上級はfortissimeとな
ります。劣等比較、同等比較、劣性の最上級の場合には、それぞれminus、
tam、minimeをつけます。minus docte(より賢くなく)、tam docte(同様
に賢く)、minime docte(まったくもって賢くなく)。

(このコーナーは"Apprendre le latin medieval", Picard, 1996-99をベースに
しています)


------文献講読シリーズ-----------------------
プロクロス『神学提要』その10

今回は提題13を見てみます。オリジナルテキストはこちらに掲げておきます。
http://www.medieviste.org/blog/archives/000575.html

# # #
(13)すべての善は、それに関与するものを一つにまとめる。一をなすあらゆ
るものは善であり、善は一と合致する。
 善が存在するすべてのものを救うのであれば(ゆえにすべてはそこに向か
う)、また、それぞれの実体を救い、まとめ上げるのが一であるのなら(一に
よってすべては救われ、個々の分散は実体を変容させてしまう)、(善が)見い
だされるかぎりにおいて、善はかかる一をもたらし、一つにまとめるのである。
 また、一が結びつきをもたらし、存在をまとめ上げるのだとすると、それぞれ
はみずからの現れにおいて完成にいたる。それによってあらゆるものが一をなす
ことは、善なのである。
 一つにまとまることがそれ自体で善をなし、善が一を作り出すのなら、単純に
善であるもの、単純に一つであるものは、存在を据えるとともに、存在に善をも
たらす。なんらかの形で善から脱落したもの、また同時に一から脱落したものに
は、そうした関与が失われている。一に関与しないものは、分断によって貫か
れ、まさにそうした形で善を欠いているのだ。
 ゆえに善性は一性にあり、一性は善性にある。善は一であり、一は最初の善な
のである。
# # #

「善」と「一」との合一を説いた箇所です。今回の箇所で内容的に一区切りつき
ます。プロクロスの『神学提要』は211の提題がありますが、内容的には大きく
14のテーマに分かれるとされ、ここまでで最初の2つのテーマ(一と多につい
て、因について)を読んでみたことになります。『神学提要』を取り上げたそも
そもの動機は、「一」から「多」がいかにもたらされるか、ということを考えよ
うということでしたが、まだまだ端緒にもついていない感じがします。でも、こ
こは焦らず読んでいきたいと思います。

『神学提要』は内容が凝縮されているために、時に言葉が足りていないような印
象も受けます。そもそもこうした抽象的な議論がなぜ神学と呼ばれるかという
と、それはプロクロスが、プラトンの著作に散見される存在論やコスモロジー
を、統一的な体系的にまとめ上げようとしているからですね。プロクロスのもう
一つの主著とも言うべき『プラトン神学』では、プラトンの『パルメニデス』の
存在論や『ティマイオス』の宇宙開闢論、『パイドロス』『国家』などの創造神
にまつわる部分などを、プロティノスのヌース論なども引き合いに出しながら、
「神学」として統一しようとしています。これもまた面白いテキストなので、今
後できれば言及していきたいと思います。

プロクロスが「神学」としてまとめる以前にも、こうしたプラトン主義の神学的
素地は、早い段階からキリスト教の教説に重なると見なされて、キリスト教世界
に取り込まれていくのでした。アウグスティヌスは『神の国』でプラトン思想の
近似性を指摘しています。また、はるか後世になりますが、12世紀のアベラー
ル(アベラルドゥス)なども、その『三位一体論』でプラトンを擁護していま
す。特に重要なのはやはり『ティマイオス』でしょうか。中世に流布したものと
してカルキディウスによる注解が有名ですが、プロクロスにも注解があります。
このあたりも折りに触れて見ていければと思います。

さて、前回予告しましたように、次回からは『神学提要』と『原因論』を併せて
読んでいくことにしましょう。さしあたりイデアや形相について論じている部分
を取り上げてみます。というわけで、次回は『原因論』の提題10、『神学提
要』の提題177を見ていきます。お楽しみに。


*本マガジンは隔週の発行です。次回は09月10日の予定です。
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(C) Medieviste.org(M.Shimazaki)
http://www.medieviste.org/
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投稿者 Masaki : 11:29

2005年08月27日

講読用原文10

(13.)  Πᾶν ἀγαθὸν ἑνωτικόν ἐστι τῶν μετεχόντων αὐτοῦ, καὶ
πᾶσα ἕνωσις ἀγαθόν, καὶ τἀγαθὸν τῷ ἑνὶ ταὐτόν.
   εἰ γὰρ τὸ ἀγαθόν ἐστι σωστικὸν τῶν ὄντων ἁπάντων (διὸ
καὶ ἐφετὸν ὑπάρχει πᾶσι ), τὸ δὲ σωστικὸν καὶ συνεκτικὸν
τῆς ἑκάστων οὐσίας ἐστὶ τὸ ἕν (τῷ γὰρ ἑνὶ σώζεται πάντα,
καὶ ὁ σκεδασμὸς ἕκαστον ἐξίστησι τῆς οὐσίας ), τὸ ἀγαθόν,
οἷς ἂν παρῇ, ταῦτα ἓν ἀπεργάζεται καὶ συνέχει κατὰ τὴν
ἕνωσιν.
   καὶ εἰ τὸ ἓν συναγωγόν ἐστι καὶ συνεκτικὸν τῶν ὄντων,
ἕκαστον τελειοῖ κατὰ τὴν ἑαυτοῦ παρουσίαν. καὶ ἀγαθὸν ἄρα
ταύτῃ ἐστὶ τὸ ἡνῶσθαι πᾶσιν.
   εἰ δὲ καὶ ἡ ἕνωσις ἀγαθὸν καθ’ αὑτὸ καὶ τὸ ἀγαθὸν ἑνοποιόν,
τὸ ἁπλῶς ἀγαθὸν καὶ τὸ ἁπλῶς ἓν ταὐτόν, ἑνίζον τε ἅμα καὶ
ἀγαθῦνον τὰ ὄντα. ὅθεν δὴ καὶ τὰ τοῦ ἀγαθοῦ τρόπον τινὰ
ἀποπεσόντα καὶ τῆς τοῦ ἑνὸς ἅμα στέρεται μεθέξεως· καὶ τὰ
τοῦ ἑνὸς ἄμοιρα γενόμενα, διαστάσεως ἀναπιμπλάμενα, καὶ τοῦ
ἀγαθοῦ στέρεται κατὰ τὸν αὐτὸν τρόπον.
   ἔστιν ἄρα καὶ ἡ ἀγαθότης ἕνωσις, καὶ ἡ ἕνωσις ἀγαθότης,
καὶ τὸ ἀγαθὸν ἕν, καὶ τὸ ἓν πρώτως ἀγαθόν.

投稿者 Masaki : 12:56

2005年08月08日

No.62

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.62 2005/08/06

------新刊情報--------------------------------
暑い日が続いています。こういう時は避暑地にでも行って本を読みたいところで
すね。なかなかそうもいかないのですが……。とりあえず、最近の新刊書の情報
をまとめておきましょう。

○『中世末南ネーデルランド経済の軌跡』
エリック・アールツ著、藤井美男監訳、九州大学出版会
ISBN:4873788684、1575yen

副題が「ワイン・ビールの歴史からアントウェルペン国際市場へ」となっていま
す。経済史の観点からワインやビールの変遷を見る、というのが興味深いです
ね。中世においては、かつて大衆の飲物だったワインは、ビールの一般化によっ
て高級品へと変わっていく、というのが基本的な動きでした。水が悪かったため
にそうした発酵飲料が基本的な飲物だったのですね。それぞれの飲料が、どの地
域にどれほどの生産があって、どのように流通したのかなど、面白そうな問題が
いろいろありそうです。

○『中世ヨーロッパの城の生活』
ジョゼフ&フランシス・ギース著、栗原泉訳、講談社文庫
ISBN :4061597124 、1050yen

著者らはアメリカの作家で、中世関連の著作を30年にわたり出しているそうで
す。同書はウェールズのチェプストー城を起点として、中世の生活誌を立体的に
浮かび上がらせる趣向のよう。全編にわたり多数の史料を駆使し、様々なエピ
ソードを紹介しながら生活の細部にまで踏み込もうとしていて、まさに「活写」
というに相応しい感じがします。いいですね、こういうの。

○『フランス中世の文学』
原野昇著、広島大学出版会
ISBN:4903068013、1875yen

この書籍については具体的な情報がありません。3月刊となっていますが……概
論的なものなのでしょうか?そういえば、ついでながら概論というか手引き書と
しては『西洋中世史研究入門』(佐藤・池上・高山編、名古屋大学出版会、
ISBN:4815805172)が増補改訂版になっていますね。

○『「世間」への旅』
阿部謹也著、筑摩書房
ISBN:448085780X、1785yen

最近『阿部謹也自伝』(新潮社、ISBN:4104759015)も話題になっていたご
存じ阿部氏の「世間」論。石牟礼道子や網野善彦へのオマージュなどが収録され
ているとのことです。歴史家の自伝やエッセイは実はとても面白いですよね。こ
れもぜひ見ておきたいです。

○『中世の死』
ノルベルト・オーラー著、一条麻美子訳、法政大学出版
ISBN:4588008218、4200yen

中世において人が死をどのように捉えていたか……そうした死生観を多面的に捉
えた著作のようです。割とあるテーマではありますが、どんな切り口で見せてく
れるのでしょうね。著者のオーラーは元大学教員で、後にフリーのジャーナリス
トになったというちょっと変わった経歴の持ち主なのですね。そういう意味でも
ちょっと面白そうな一冊。


------中世の古典語探訪「ラテン語編」------
第12回:形容詞の比較

第三変化名詞が出てきたら、やっぱり第三変化形容詞(いわゆる第二類形容詞)
も復習しなくてはなりませんが、長くなるのでここでは端折ってしまうことにし
ます(笑)。参考書などの活用表を見て確認してください。ただ注意事項が一つ
あります。中世ラテン語の場合、-eで終わる単数の奪格語尾は、-iになりがちだ
ということです(与格と同じになる、ということですね)。例えばvetus(古
い)の単数奪格vetereはveteriになり、「古い修道院で」なんて場合はin veteri
monasterioとなったりします。

今回の本題は比較表現の復習です。まず同等比較(同じほど〜だ)や劣等比較
(より少なく〜だ)はフレーズの形で作るのでした。代表的なものは、同等比較
ならtam doctus quam (〜と同じほど知識がある)、劣等比較ならminus
doctus quam(〜よりも知識がない)という形です。

優等比較(より〜だ)や最上級(最も〜だ)は形容詞に語尾をつけます。まず優
等比較の場合は、男性形・女性形になら-ior、中性形になら-iusをつけるのでし
た。これもまた格変化します。doctusを例に取ると、主格なら男性・女性形で
doctior、中性でdoctiusとなり、属格はどれもdoctiorisになります。第三変化に
準じるのですね。ここでルールがありました。属格の方が主格よりも音節が多い
(imparisyllabic)場合、複数属格は-umになるのでしたね。そんなわけで、複
数属格はdoctiorumとなります。

「〜よりも」を表すには、補語としてquamを後につけて同じ格の名詞を続ける
か、あるいは単純に奪格だけを続けます。「彼はペトルスよりも知識がある」は
次の2つの言い方ができます。
Doctior est quam Petrus.
Doctior est Petro.
こういう補語がない場合、形容詞の意味が単に強調される場合もあります。
Doctior est Petrus. (ペトルスはものすごく知識がある)

最上級(最も〜だ)は、男性・女性・中性形でそれぞれ-issimus、-issima、-
issimumをつけます。語末が-erで終わる形容詞の場合には、それぞれ-
errimus、-errima、-errimumとなります。doctusの最上級(男性・単数)は
doctissimus、pulcher(美しい)の最上級はpulcherrimusになります。最上級
でも補語を取る場合があり(〜の中で最も〜だ)、例えば複数属格を続けたり、
exないしdeに奪格を続けたり、interに対格を続けたりします。「司教の中で最
も知識がある」なら、次のような言い方ができます。
doctissimus episcoporrum
doctissimus ex (de) episcopis
doctissimus inter episcopos

(このコーナーは"Apprendre le latin medieval", Picard, 1996-99をベースに
しています)


------文献講読シリーズ-----------------------
プロクロス『神学提要』その9

今回は提題12を見てみましょう。例によってギリシア語の原文は次のURLに掲
載しておきます。
http://www.medieviste.org/blog/archives/000560.html

# # #
(12) すべての存在の源および第一の原因は善である。
 仮に一つの因からすべてが生じるのであるなら、その因は善であるか、もしく
は善に勝るものであると言わねばならない。だが、もしそれが善に勝るものであ
るなら、あらかじめ何かがあって、そこから存在するものと存在するもののピュ
シスが生じているのだろうか、あるいはそうではないのだろうか?もしそうでな
いなら、それは不条理となろう。それでは因の序列に位置づけることはできない
だろうし、原因からは必ずやなんらかの結果が生じなくてはならないのだし、第
一原因とは異なった形のものが生じなくてはならないからだ−−第一原因はすべ
ての拠り所であり、個々の存在をもたらす根拠をなしているのだから。もし諸存
在がその因に関与し、同じく善にも関与するのであれば、それら諸存在には善性
に勝る何かがあることになる。やはり第一原因に由来している何かだ。おそら
く、善に勝るもの、善を越えるものは、後に生じる二次的な存在に、善に劣った
何かをもたらすことはない。それに、善性よりも優れた何がありうるというのだ
ろう?というのも、その「勝るもの」とは、より大きな善に関係するものなのだ
と言えるからだ。その勝るものを、善ではないとは言えないのであれば、すべて
は善に対して二次的なもの、ということになる。

 もしあらゆる存在が善へと向かうのであれば、どうして善より以前に何らかの
因がありうるだろう?また、もし善に向かうのなら、なにゆえにまず善に向かう
のだろう?もし向かわないのであれば、なぜそこから由来するものが、あらゆる
ものの因へと向かわないのだろう?
 もしあらゆる存在が由来する当の場所が善であるならば、あらゆるものの起源
および第一原因は善であることになる。
# # #

第一原因は善である、という話ですが、翻ってすべての存在はその第一原因を指
向しているのだということも強調されています。「向かう」と訳したephie_mi
は、「目指す」「欲する」という意味ですね。前にちょっと触れた「欠落」がも
たらす指向性を再び思い起こしておきましょう。また「関与」と訳した
metousiaは、「参加」「共有」といった意味合いです。関与するものと関与さ
れるものとの関係は、例えば部分と全体、結果と原因、species(類)とgenus
(種)といった関係にあると考えられます。その意味で、関与するもの・される
ものは同一ではないと取れます。

この「関与」(ラテン語ではparticipare)について、13世紀のドミニコ会士、
フライブルクのディートリッヒ(テオドリクス)の『存在と本質』("esse et
essentia")という小論に、端的にまとめた箇所がありますので紹介しておきま
しょう。ディートリヒのこの書は、esse(存在)とessentia(本質)の区別を
めぐる議論で、一種の記号論的な話が展開する興味深いテキストです。存在と本
質の合一は神においてしかありえないという議論への反論として、彼はこんなこ
とを述べます。「関与する、という意味は三種類ある。一つは、外部からもたら
された何かを保持しているという意味だ。すると『すべての被造物はおのれの存
在を、純粋な存在(神)に与っている』という場合、存在ばかりか本質にも同様
に関わっていることになるので、両者の区別はなくなる。二つめは、事物の本質
が何かを受け取り、それによって何かを構成するという意味だ。この意味に取る
と、それでは被造物は存在には関わらないことになってしまう。三つめは、全体
に対する部分をなすという意味だ。被造物の存在は制限・制約を受けており、
ちょうど第一原因が全体だとすれば部分に縮約(contractus)される。だがこの
場合も、存在の縮約は事物の本質によって生じるのであり、存在と本質は区別さ
れない」。「存在と本質」という部分を省くと、この箇所、「関与」という語句
の注解として読めますね。

ディートリッヒはこの箇所で、前から取り上げている『原因の書』(『神学提
要』を再編した書で、アラビア語版から訳されて13世紀に流布しました。トマ
ス・アクィナスなども参照しています)の提題20に言及しているのですが、ど
うも版が違うのか、手元にある『原因の書』テキストの提題20には該当箇所が
見当たりませんでした。13世紀ごろの「引用」は記憶に頼っている場合が多い
ので、あるいは間違えているのかもしれません。いずれにしても、13世紀の思
想をたどる上で、『原因の書』は避けて通れない重要なテキストですね。それで
ちょっと思ったのですが、『原因の書』と『神学提要』の対応部分と比較してみ
るのも面白いかもしれません。次回の提題13で、一応内容的な切れ目になりま
すので、その後は年内一杯くらい、少し両者の比較をしてみたいと思います。さ
わりだけではありますが、どうぞお楽しみに。

投稿者 Masaki : 21:20

2005年08月06日

講読用原文9

(12.)  Πάντων τῶν ὄντων ἀρχὴ καὶ αἰτία πρωτίστη τὸ ἀγαθόν
ἐστιν.
   εἰ γὰρ ἀπὸ μιᾶς αἰτίας πάντα πρόεισιν, ἐκείνην τὴν αἰτίαν
ἢ τἀγαθὸν χρὴ λέγειν ἢ τἀγαθοῦ κρεῖττον. ἀλλ’ εἰ μὲν κρείτ‑
των ἐκείνη τοῦ ἀγαθοῦ, πότερον ἥκει τι καὶ ἀπ’ ἐκείνης εἰς τὰ
ὄντα καὶ τὴν φύσιν τῶν ὄντων, ἢ οὐδέν; καὶ εἰ μὲν μηδέν,
ἄτοπον· οὐ γὰρ ἂν ἔτι φυλάττοιμεν αὐτὴν ἐν αἰτίας τάξει, δέον
πανταχοῦ παρεῖναί τι τοῖς αἰτιατοῖς ἐκ τῆς αἰτίας, καὶ διαφερόν‑
τως ἐκ τῆς πρωτίστης, ἧς πάντα ἐξήρτηται καὶ δι’ ἣν ἔστιν
ἕκαστα τῶν ὄντων. εἰ δέ ἐστι μετουσία κἀκείνης τοῖς οὖσιν,
ὥσπερ καὶ τἀγαθοῦ, ἔσται τι τῆς ἀγαθότητος κρεῖττον ἐν τοῖς
οὖσιν, ἐφῆκον ἀπὸ τῆς πρωτίστης αἰτίας· οὐ γάρ που, κρείττων
οὖσα καὶ ὑπὲρ τἀγαθόν, καταδεέστερόν τι δίδωσι τοῖς δευτέροις
ὧν τὸ μετ’ αὐτὴν δίδωσι. καὶ τί ἂν γένοιτο τῆς ἀγαθότητος
κρεῖττον; ἐπεὶ καὶ αὐτὸ τὸ κρεῖττον τὸ μειζόνως ἀγαθοῦ μετ‑
ειληφὸς εἶναι λέγομεν. εἰ οὖν οὐδὲ κρεῖττον ἂν λέγοιτο τὸ μὴ
ἀγαθόν, τοῦ ἀγαθοῦ πάντως δεύτερον.

   εἰ δὲ καὶ τὰ ὄντα πάντα τοῦ ἀγαθοῦ ἐφίεται, πῶς ἔτι πρὸ
τῆς αἰτίας ταύτης εἶναί τι δυνατόν; εἴτε γὰρ ἐφίεται κἀκείνου,
πῶς τοῦ ἀγαθοῦ μάλιστα; εἴτε μὴ ἐφίεται, πῶς τῆς πάντων
αἰτίας οὐκ ἐφίεται, προελθόντα ἀπ’ αὐτῆς;
   εἰ δὲ τἀγαθόν ἐστιν ἀφ’ οὗ πάντα ἐξήρτηται τὰ ὄντα, ἀρχὴ
καὶ αἰτία πρωτίστη τῶν πάντων ἐστὶ τἀγαθόν.

投稿者 Masaki : 09:11