2005年09月26日

No.65

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.65 2005/09/24

------クロスオーバー-------------------------
「女性観」をめぐる問題

日経新聞の文化欄に連載されている小説『愛の流刑地』は、今やネットでは「あ
いるけ」と略され、揶揄されたり批判されたりしているようですね。文章の描写
もさることながら、挿絵に裸が描かれたりしているので、イスラム圏の東南アジ
アなどでは完全にポルノと見なされるようで、日系企業などで日経の海外講読を
いったん中止するような動きまで出ていると聞きます。

批判が大きいのは、「女性は男性より深い快楽を感じる」というような文言が無
反省的に使われるからでしょう。これってあくまで男性側からの主観の問題でし
かありませんからね。こうした表現の背後には、男性本位・女性蔑視の見方がこ
びりついているように思えます。歴史的に振り返ると、実はこれ、西欧の古代お
よび中世の女性観にまで遡ることができます。例えば代表的なものに、偽アルベ
ルトゥス・マグヌスの『女性の秘密』という書があります。先に文庫で出たジョ
ゼフ&フランシス・ギーズ『中世ヨーロッパの城の生活』(栗原泉訳、講談社学
術文庫)にはアルベルトゥス本人の作であるかのように紹介されていますが、こ
れはどうやら弟子筋の誰かが書いたものだろうということです。『女性の秘密』
はアリストテレス注解の抜粋本で、ギーズの本によると、そこでは女性を質料、
男性を形相ととらえ、「質料は不完全であるがゆえに形相を取ろうとする、よっ
て女性は不完全ゆえに男性と一体になることを望み、より大きな快楽を得る」と
いった議論が展開し(p.120)、また、男性の快楽は種の放出だけなのに対し
て、女性は種の放出とその受け取りという二重の快楽を得るのだ、と論じられて
いるようです。

この「女性が放出する種」という点について、興味深い論考があります。以前に
も言及したカルメラ・バフィオーニ編『アヴェロエスとアリストテレスの遺産』
(Alfred Guida Editore、2004)という論集に所収の、編者バフィオーニによ
る論考「アヴェロエスの発生学と『女性の種』問題についての補足注」
(pp.159-172)がそれで、そこでは次のような話が展開しています。

上に記したように、アリストテレスはその質料形相論から、人間の誕生を男性の
種の形成力のみによる作用として捉えています。女性は質料をもたらすという限
定された(貶められた)役割しか担っていません。これに対し、もう一つの考え
方として、ヒポクラテスからとりわけガレノスを経由して受け継がれた説があり
ました。それが、男性だけでなく女性も種を放出し、両者の協同によって人間が
形成されるという考え方です。この立場では、女性はより重要な役割を担うこと
になります。こちらは早くからシリアを経由してアラブ世界に入り、そこでの医
学思想の伝統に組み入れられました(イスラム世界はもともと、女性を軽んじる
ようなスタンスは取っていなかったのですね)。とはいえ、徐々にアリストテレ
ス思想の受容が前面に出て、この「女性の種」説は次第に後退していきます。ア
ル・ファーラービーやアヴィセンナ(イブン・シーナ)は、人間発生論に関して
明らかにアリストレス寄りになります。ガレノスへの好みを多少とも示している
らしいアヴェロエスの場合は、一方でアリストテレス的な立場へを強く反映し、
人間の誕生における「女性の種」の役割は否定するものの、質料形相論的枠組み
の中で、女性の役割は少なからず重要であることを改めて論じているといいます
(この論考の内容を、アヴェロエスは論点をずらしながら、貶められた女性像を
救っているのだ、というふうに読んでしまうのはちょっと行き過ぎでしょうか
ね?)

西欧でも、アヴェロエス思想が本格流入する13世紀には、質料が単なる受容体
ではなく、形相を受け取る力という意味での力を宿している、という考え方が拡
がっていきます。上の偽アルベルトゥス本では、アリストテレス思想に取り込ま
れる形で「女性の種」が解釈(歪曲?)されているようですが、では質料の力の
見直しにともなって、思想史的な意味での「女性観」に微妙な変化のようなもの
は生じなかったのでしょうか?このあたりの問題については、そのうち少し詳し
く調べてみたいところです。

いずれにしても、西欧の古代・中世においては、壮大なコスモロジーがまず背景
にあって(質料形相論は巨視的な世界観を織りなすものです)、その上に思想的
な女性観が成り立っていたわけで、現代とはだいぶ事情が異なっています。中世
の女性観は、そうした世界観に位置づけ直して理解しなくてはならないもので
しょう。一方、俗っぽい新聞連載小説に代表されるきわめて現代的な、主観的で
いかにも無根拠な「蔑視」は、たとえかつての(しかも西欧流の)そうした女性
観の残響を残すものだとしても、やはり別ものです。一つの亜種・亜流といって
もよいでしょう。ネット上でいろいろな批判が加えられるのも時代的に理にか
なっていることと思いますが、それ以上に、現代においてもそういう「蔑視」を
支えるような、何か新たなイデオロギーのようなものが台頭してこないとも限り
ません。そのあたりに警戒することも必要かもしれません。


------中世の古典語探訪「ラテン語編」------
第15回:所有代名形容詞

白水社から『ラテン広文典』(泉井久之助著)が限定復刊されましたね。これは
嬉しいですね。古典語用ではありますが、入門用として、また後から確認するた
めの文法書として実に有益な一冊です。ここでは文法事項の復習を行っています
が、今後は適宜、同書にも言及させていただくことにしましょう。また、この
コーナーは中世ラテン語の文法の復習ということで、今後はなるべく中世的な特
徴に的を絞ってピンポイント的に見ていくことにします。

というわけで今回は所有代名形容詞の注意点です。男性形の人称変化はmeus、
tuus、suus、noster、vester、suusです。中性形、女性形は語尾がそれぞれ-
a、-umになるのでした(中性1人称複数はnostrum、vestrumという形もあり
ます。3人称のsuusが単複同形になる点も大事なポイントですね。

中世ラテン語でとりわけ注意が必要なのは、この所有代名形容詞や前回の人称代
名詞での再帰用法です。古典ラテンではsuusが使われれば、所有者は主語があ
らわす人となります(主語とは別の所有者ならejusとなります)。
Praecepit ut se ad tumultum suum marmoneum ducerent.(彼は彼らに、自
分を自分の大理石の墓へと連れていくよう命じた)
*seもsuumもpraecipioの主語を表すのであって、duceoの主語を表すのではあ
りません。

ところが中世ラテン語では、この再帰用法は曖昧になっていき、再帰的ではない
ものにまでsuusが使われたりします。
Non est nostrum lacrimosis expendere verbis quid sibi in itinere contigerit.
(旅の途中で彼(≠主語)に起きたことを、わたしたちは涙なしには語れな
い)。
*本来ならこのsibiはeiであるはずのところです。

また、suusに代えてpropriusが使われるようにもなっていきます。
Domum proprium repedavit. (彼は自分の家に戻った)

このあたり、文法規則が変わっていく様を見ているかのようで、とても面白いで
すね。

(このコーナーは"Apprendre le latin medieval", Picard, 1996-99をベースに
しています)


------文献講読シリーズ-----------------------
プロクロス『神学提要』その12

今回は『原因論』の提題11(100から102節)と、それに対応するとされる
『提要』の提題172、174を見てみます。この対応関係は、『原因論』の羅独対
訳本("Das Buch von den Ursachen", Felix Meiner Verlag, 2003)から取って
います。いつものように原文は次のURLに挙げておきます。
http://www.medieviste.org/blog/archives/000598.html

# # #
『神学提要』:
(172) あらゆる知性は、永遠なるものに、また存在の存続を通じて不変である
ものに密接に関係している。
 不動なるものを原因として生じるものは、すべて存在において不変である。知
性は不動であり、あらゆる点で永遠であり、永遠のもとにとどまる。またそれが
もたらすものはすべて、その存在によってもたらされる。知性が永遠であり、変
わらないのであれば、それがもたらすものも変わらない。時に存在の、また時に
非存在の原因になるのではなく、つねに存在の原因であり続ける。

(174) あらゆる知性は、知解によって、それに続くものをもたらす。その創造
は知解にあり、知解は創造にある。
 知性の対象と知性とが同一で、それぞれの存在はおのれの中にある知解力と同
一であるならば、知性はその存在を通じて創造するものを創りあげ、存るものを
存在へと導く。また、知解を通じて、導かれるべきものを導くだろう。存在と知
解はともに一つであり、知性とその中にあるすべての存在とは同一である。知性
が存在を通じて創造するならば、存在は知解とイコールであり、知性は知解を通
じて創造する。
 知解力は、知解する中で現実態となる。知解力は存在と同一である。存在は創
造の中にある(不動のままに創るものは、つねに創造の中に存在を有してい
る)。そして知解力は創造の中にある。

『原因論』:
100 あらゆる知性は、破壊もされず時間の中にくだることもない、永遠の事物
を知解する。
101 つまり、知性が動きのない永遠なるものであるなら、それみずからが、破
壊も変化も被らず、生成と消滅に陥ることもない永遠の事象の原因をなしている
のである。そして知性は、おのれの存在によって事物を知解する以外になく、そ
の存在とは退廃にいたらない永遠なるものなのだ。
102 そうであるなら、破壊されうる事物(……)は身体性[corporeitas]から
生じていると言えるだろう。つまり時間の中の身体的[corporeus]原因によるの
であって、永遠の知解可能性を原因とするのではない。
# # #

一者による世界創造が一者の知性の作用によるものだという話を端的に表した箇
所です。知解(知的理解)というのは、本質を捉える(=創る)という知性の働
きということで、捉えられた本質も、それを捉える知性も、ともに不変・永遠の
相のもとにある、というわけです。

100節に提題172が、101節に提題174が対応するとされていますが、だいぶ趣
が違いますね(むろん、訳のせいもあるのですが……(苦笑))。提題172はそ
れ自体が、提題76(不変のものを原因とするものは不変)、提題169(知性は
永遠)、提題26(原因そのものの不変)などの言及から成り、提題174にも、
提題167(知性とその対象は同一)などが組み込まれてます。対応関係から外れ
る102にはcorporeitas(身体性)といった語が出てきますが、これは質料と同
じような意味で用いられているものと思われます。あえて身体性と言っているあ
たりに、あるいはアリストテレスの『霊魂論』あたりの残響を感じ取ることもで
きるのかもしれません。

こうしてみると、『提要』そのものが入れ子状といいますか、一種の相互参照系
のようにも見えてきます。あるいはそうした『提要』のもつ特徴から、『原因
論』の編集プロセスが導かれているのかもしれない、という気もしてきます。各
提題の重複部分を削除し、核心部分だけを取り出してみると、それらはいかにも
再編集可能なパーツであるかのように見えてきます。あとはそれをどう組み合わ
せてまとめなおすか、なのですが、そこにはおそらく、逸名の編纂者が抱く包括
的な思想、戦略、解釈が介在しているはずです。その意味では、『提要』もそう
ですが、『原因論』では個別のパッセージもさることながら、全体的な構成も等
しく重要になってきそうです。そのあたりも今後、参考書などを見つつ、形式と
内容の双方から考えみたいと思っています。


*本マガジンは隔週の発行です。次回は10月08日の予定です。

投稿者 Masaki : 07:43

2005年09月24日

講読用原文12

(172.)  Πᾶς νοῦς ἀϊδίων ἐστὶ προσεχῶς καὶ ἀμεταβλήτων κατ’
οὐσίαν ὑποστάτης.
   τὸ γὰρ ἀπὸ ἀκινήτου παραγόμενον αἰτίας ἅπαν ἀμετάβλητόν
ἐστι κατὰ τὴν οὐσίαν· νοῦς δὲ ἀκίνητος, αἰώνιος πάντῃ ὢν καὶ
ἐν αἰῶνι μένων. καὶ τῷ εἶναι παράγει ἃ ἂν παράγῃ· εἰ δὲ ἀεὶ
ἔστι καὶ ὡσαύτως ἔστιν, ἀεὶ παράγει καὶ ὡσαύτως· οὐκ ἄρα
ποτὲ μὲν ὄντων, ποτὲ δὲ μὴ ὄντων αἴτιος, ἀλλὰ τῶν ἀεὶ ὄντων.

(174.)  Πᾶς νοῦς τῷ νοεῖν ὑφίστησι τὰ μετ’ αὐτόν, καὶ ἡ ποίησις
ἐν τῷ νοεῖν, καὶ ἡ νόησις ἐν τῷ ποιεῖν.
   εἰ γὰρ νοητόν ἐστι καὶ νοῦς ταὐτὸν καὶ τὸ εἶναι ἑκάστου τῇ
νοήσει τῇ ἐν ἑαυτῷ [ταὐτόν ], ποιεῖ δὲ ἃ ποιεῖ τῷ εἶναι, καὶ παρ-
άγει κατὰ τὸ εἶναι ὅ ἐστι, καὶ τῷ νοεῖν ἂν παράγοι τὰ παραγό-
μενα. τὸ γὰρ εἶναι καὶ τὸ νοεῖν ἓν ἄμφω· καὶ γὰρ ὁ νοῦς καὶ
[πᾶν ]τὸ ὂν τὸ ἐν αὐτῷ ταὐτόν. εἰ οὖν ποιεῖ τῷ εἶναι, τὸ δὲ
εἶναι νοεῖν ἐστι, ποιεῖ τῷ νοεῖν.
   καὶ ἡ νόησις ἡ κατ’ ἐνέργειαν ἐν τῷ νοεῖν· τοῦτο δὲ τῷ εἶναι
ταὐτόν· τὸ δὲ εἶναι ἐν τῷ ποιεῖν (τὸ γὰρ ἀκινήτως ποιοῦν τὸ
εἶναι ἐν τῷ ποιεῖν ἀεὶ ἔχει )· καὶ ἡ νόησις ἄρα ἐν τῷ ποιεῖν.


100 Omnis intelligentia intelligit res sempiternas quae non destruuntur neque cadunt sub tempore
101 Quod est quoniam si intelligentia est semper quae non movetur, tunc ipsa est causa rebus sempiternis quae non destruuntur nec permutantur neque cadunt sub generatione et corruptione. Et intelligentia quidem non est ita, nisi quia intelligit rem per esse suum, et esse suum est sempiternum quod non corrumpitur (...)
102 Cum ergo hoc sit ita, dicimus quod res destructibiles (...) sunt ex corporeitate, scilicet ex causa corporea temporali, non ex causa intellectibile aeterna,

投稿者 Masaki : 11:31

2005年09月12日

No.64

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.64 2005/09/10

------新刊情報--------------------------------
まだまだ遠い秋に向けて(笑)……新刊情報です。

○『寛容の文化−−ムスリム、ユダヤ、キリスト教徒の中世スペイン』
マリア・ロサ・メノカル著、足立孝訳、名古屋大学出版会
ISBN:4815805180、3990yen

700年のスパンで描く、中世スペインの文化史のようです。中世のイベリア半島
が文化混淆地帯だったのはよく知られていますが、そのあたりの詳述・通史みた
いなものは意外と少ないですよね。そんな中でのこの一冊、とても楽しみです。
特に三大啓示宗教の絡みが注目されます。文化交流の活写に期待。

○『ラルース・ビジュアル版−−美術から見る中世ヨーロッパ』
ジャニック・デュラン著、杉崎泰一郎監修、吉田春美訳、原書房
ISBN:4562039442、3780yen

著者はルーヴル美術館の主任学芸員とか。原書は1999年刊で、中世美術の手頃
なガイドブックのようです。そちらの紹介文によると、5世紀から15世紀までの
建築、絵画、彫刻、宝飾などへの入門書ということです。こういうのは図版を眺
めているだけでも楽しいですね。

○『中世哲学を学ぶ人のために』
中川純男、加藤雅人編、世界思想社
ISBN:4790711439、2100yen

世界思想社の「〜を学ぶ人のために」シリーズの最新刊。同シリーズは入門書と
いうより、ちょっと進んだ読者を対象にしている感じがあります(例えば、柴田
光蔵『法律ラテン語を学ぶ人のために』などは、初級の文法を一通り終えた後に
復習として使うにはとても重宝です)。今回のこれも、中世哲学の入門書という
よりは、概説を読み終えた後の読者を想定している風です。概論と各論の中間を
狙っているのでしょう、多くの著者がそれぞれの研究成果のエッセンスをまとめ
ています。リファレンス本としても役立ちそうですね。

○『君主の統治について−−謹んでキプロス王に捧げる』
トマス・アクィナス著、柴田平三郎訳、慶應義塾大学出版会
ISBN:4766411870、2650yen

「De regno ad Regem Cypri」の邦訳。こういう邦訳が出ることそれ自体が素晴
らしいですね。中世の「君主の鑑」の伝統に根ざしたトマス流の帝王学というこ
とで、ぜひ一読したいところですが、訳者解説も注目に値します。訳者にはソー
ルズベリーのジョンを論じた『中世の春』などの著書があり、ここでも君主の鑑
の伝統からソールズベリーのジョンの「ポリクラティクス」の革新性など、トマ
スに連なる流れを詳しく解説しています。


------中世の古典語探訪「ラテン語編」------
第14回:代名詞のポイント

今回は代名詞のおさらいです。人称代名詞と指示代名詞について今一度、変化表
を確認しましょう。

人称代名詞について特にポイントになるのは、複数形・属格の一人称と二人称
(わたしたちの、あたたたちの)で、nostri、vostriのほかにnostrum、
vostrumという形があることでした。これらは部分属格と呼ばれ、「わたしたち
のうちの誰それ」「あたたたちのうちの誰それ」を表します。
unus nostrum(わたしたちのうちの一人)
doctissimus vestrum(あたたちのうちで最も博識な人)

また、人称代名詞では-metや-teがついたり、ipseをともなったりして意味が強
化される場合があるのでした。
nosmet ipsi(わたしたち自身)

さらに再帰代名詞として使われる三人称seには、seseという形もあることなど
も押さえておきたいところです。

指示代名詞(is、 ea、 id)もかなり重要です。余談ですが、指示代名詞のこと
をanaphoricと言います。これはギリシア語のanaphero_(呼び戻す)から来て
いるのですね。基本的にはすでに話に出た語を指す代名詞です。Ab eo vitio eos
revocare voluit(彼は彼らを、その過ちから呼び戻したいと思った)という文
の場合、eoはすでに話に出た「その」という意味ですし、eosもすでに話に出て
いる「彼ら」を指しています。

(このコーナーは"Apprendre le latin medieval", Picard, 1996-99をベースに
しています)


------文献講読シリーズ-----------------------
プロクロス『神学提要』その11

今回から、『神学提要』そのものと、アラブ経由で再編されラテン中世に伝わっ
た『原因論』とを併せて読んでいきたいと思います。いくつかの箇所をピック
アップして読んでみて、それがどう違っているか、といった問題を考えてみたい
と思います。とりあえず予定としては、『原因論』で形相の問題が扱われている
提題10から13、さらに実体の形成を論じている提題25から28を見ていきたい
と思います。今回は『原因論』提題10(92節から99節)と、それに対応する
『神学提要』の提題177を見てみましょう。原文はこちら。
http://www.medieviste.org/blog/archives/000584.html

# # #
『神学提要』提題177

(1)すべての知性は形相に満たされているで。普遍的な形相を抱くものもあれ
ば、個別的な形相を抱くものもある。より高みにある知性がもつ形相は普遍的
で、それに続く知性がもつ形相はより個別的になる。より下にあるものがもつ形
相はより個別的で、それに先行するものがもつ形相はより普遍的である。
(2)高みにある知性ほどより大きな力をもち、二次的な知性よりも一性において
優れている。より低い知性はいっそう多様であり、それがもつ力はより小さくな
る。一者との関連が強いほど、それだけ一者に近く、後続するものを力において
凌ぐのである。一者から遠ざかるものはその逆となる。高みに置かれるものほど
より大きな力をもち、多をなすほど小さな力をもつ。少ないほど、力によって
(知性が)導く形相は多くなる。後続する知性は、多であるがために、力は減
じ、導く形相も少なくなる。もしそれら知性が、より少ないがためにより多く導
くなら、その中にある形相はいっそう普遍的なものになる。より多いがためによ
り少なく導くのなら、形相はより個別的である。
(3)ゆえに、高みにある知性によって一つの形相として産出されたものは、二次
的な知性によって切り出されることで多様な形相へと導かれる。逆に力を欠いた
知性によって、多彩かつ多様な形相へと導かれたものは、より少ない普遍的な知
性によって高みへと導かれる。全体的で、すべてに共に関与するものは、高い知
性から導かれるのであり、分割されたもの、個別的なものは二次的な知性から導
かれるのだ。そこから、二次的な知性は、より個別的な形相によって差異を際立
たせ、第一の知性による形相の構成を細やかに仕上げるのである。

# # #
『原因論』提題10(92から99節)

92 あらゆる知性は形相に満たされている。しかしながら、知性の中にはより普
遍性の低い形相を含むものもあれば、より普遍性の高い形相を含むものもある。
93 すなわち、個別的なものとして下位の二次的知性に含まれた形相は、一次的
知性には普遍的なものとして含まれている。また、一次的知性に普遍的なものと
して含まれている形相は、二次的知性には個別的なものとして含まれている。
94 一次的知性には大きな力がある。下位の二次的知性よりも一性が強いからで
ある。下位の二次的知性においては力は弱い。一性が弱く、いっそう多様だから
である。
95 すなわち、一者に近い知性は、それだけ数としては小さくなり力は大きくな
るし、一者から離れた知性は、それだけ数として大きくなり力は弱くなるから
だ。
96 一者に近い知性は、それだけ数としては小さく力は大きいがゆえに、一次的
知性から生じる形相は、普遍的な一性の発出によって(processione)生じる
[以下欠落]。
97 手短に言ってしまえば、一次的知性から二次的知性へともたらされる形相
は、発出においていっそう弱く、分離においていっそう強い。
98 それゆえ、二次的な知性は、普遍的な知性の中にある普遍的な形相へとまな
ざしを向け、それを分割し分離する。その形相の真理や確証性ゆえに、(二次的
知性は)それらの形相を受けとめられる形、つまり分離と分割による以外に、み
ずからそうした形相を受けとめることはできない。
99 同じように、任意の知性がその上位にある事物を受けとめるには、みずから
がそれらを受けとめられる形で受けとめる以外になく、当の事物に即した形では
受けとめられない。

# # #

いかがでしょうか。両者の関係は、段落(1)に92と93が、段落(2)に94と95が
対応していますが、96には欠落部分があり対応関係が不明になっていて、さら
にその後は異なる展開を見せています。97はちょっと浮いていて、98、99が
(3)に部分的に対応する、という感じになっていますね。この97以下は、ひょっ
として『原因論』の逸名著者による注解なのかもしれない、という印象を受けた
りもします。ひるがえって92から95を見てみると、もとの『提要』のパッセー
ジがいくぶんすっきりした形で記されているように思えます。

力と訳した「デュナミス」は、ここでは形相を導いて形を起こす力という風に解
釈できます。知性(ヌース)は階層化されていて、上位と下位に別れ、ピラミッ
ド型に下位において数は増し、その分、形成力は小さくなっていくのですね。さ
らに知性の中に抱かれている(含まれている)という形相も、上位と下位でそれ
ぞれ普遍性の度合いが異なります。『提要』では、(3)においていわば可逆性に
も言及しているわけですが、『原因論』のこの箇所では、一次的な知性から二次
的な知性への形相の受け渡しが記されているだけです。一次的な知性が普遍的な
相を定めるのに対して、下位の知性はそれに差異を持ち込んで多様化させる……
なるほど、ピラミッド型というのは基本的にツリー型の分割構造でもあるわけで
すね。面白いのは、知性の上下関係はともかく、それに対応する形で形相にも普
遍性の大小が想定されている点です。

97の「発出においていっそう弱く、分離においていっそう強い」(debiliores in
processionis et vehementiores in separationis)は、おそらく形成力が弱く、
差異の混入がいっそう激しいという意味なのでしょう。プロクロスの『プラトン
神学』第二巻の冒頭には、「一」と「多」という相反するものをどう関係づけれ
ばよいのかといった議論がありますが、そこで詳述されているのは、以前ここで
も見たように、あくまで「多」が「一」に関与するのであり、「一」の純粋性・
上位性はあくまで保たれなければならないという議論です。「多」は「一」とは
別の因によって導かれるのであり、差異をもたらすは「一」の側ではない、とい
うわけで、「一」から離れるところに差異が生じる、といのが基本的な図式に
なっています。多様性こそが豊饒の証、などという後世の考え方はここには見ら
れず、完全体とでもいうべき「一者」にこそ善が、豊かさが、力があり、そこか
ら離れることが悪や貧しさを導き入れる、と考えているのですね。

ちなみに、『プラトン神学』の希仏対訳本("Theologie platonicienne" livre II,
Les Belles Lettres, 2003)の注によると、「すべての多は一に関与する(与
る)」という一文は、もとはプラトンの『パルメニデース』によるもので、偽
ディオニュシオス・アレオパギタの『神名論』にも見られ(いかにも否定神学っ
ぽい二重否定文の形になっています)、さらにはトマス・アクィナスも『神学大
全』で引用しているといい、中世には哲学の常套句と化していくのだといいま
す。いずれにしても、上の基本的な図式はその後も長く受け継がれていくようで
す。

次回は引き続き、『原因論』の提題11、そしてそれに対応する『提要』の
172、174を見ていきます。


*本マガジンは隔週の発行です。次回は09月24日の予定です。

投稿者 Masaki : 08:35

2005年09月10日

講読用原文11

(177.)  Πᾶς νοῦς πλήρωμα ὢν εἰδῶν, ὁ μὲν ὁλικωτέρων, ὁ δὲ
μερικωτέρων ἐστὶ περιεκτικὸς εἰδῶν· καὶ οἱ μὲν ἀνωτέρω νόες
ὁλικώτερον ἔχουσιν ὅσα μερικώτερον οἱ μετ’ αὐτούς, οἱ δὲ κατω-
τέρω μερικώτερον ὅσα ὁλικώτερον οἱ πρὸ αὐτῶν.
   οἱ μὲν γὰρ ἀνωτέρω δυνάμεσι χρῶνται μείζοσιν, ἑνοειδέστεροι
τῶν δευτέρων ὄντες· οἱ δὲ κατωτέρω, πληθυνόμενοι μᾶλλον,
ἐλαττοῦσι τὰς δυνάμεις ἃς ἔχουσι. τὰ γὰρ τῷ ἑνὶ συγγενέσ-
τερα, τῷ ποσῷ συνεσταλμένα, τῇ δυνάμει τὰ μετ’ αὐτὰ
ὑπεραίρει· καὶ τὰ τοῦ ἑνὸς πορρώτερον ἔμπαλιν. δύναμιν οὖν
οἱ ἀνωτέρω προστησάμενοι μείζονα, πλῆθος δὲ ἔλαττον, δι’
ἐλαττόνων κατὰ τὸ ποσὸν εἰδῶν πλείω παράγουσι διὰ τὴν δύνα-
μιν· οἱ δὲ μετ’ ἐκείνους διὰ πλειόνων ἐλάττω κατὰ τὴν τῆς
δυνάμεως ἔλλειψιν. εἰ οὖν ἐκεῖνοι δι’ ἐλαττόνων πλείονα παρ-
άγουσιν, ὁλικώτερα τὰ ἐν αὐτοῖς εἴδη· καὶ εἰ οἵδε διὰ πλειόνων
ἐλάττονα, μερικώτερα τὰ ἐν τούτοις.
   ἐξ ὧν δὴ συμβαίνει τὰ καθ’ ἓν εἶδος ἐκ τῶν ὑπερτέρων ἀπο-
γεννώμενα κατὰ πλείους ἰδέας ἐκ τῶν δευτέρων διῃρημένως
παράγεσθαι, καὶ ἔμπαλιν τὰ διὰ πολλῶν καὶ διακεκριμένων
ἰδεῶν ὑπὸ τῶν καταδεεστέρων παραγόμενα δι’ ἐλαττόνων καὶ
ὁλικωτέρων ὑπὸ τῶν ἀνωτέρω παράγεσθαι· καὶ τὸ μὲν ὅλον καὶ
κοινὸν πᾶσι τοῖς μετέχουσιν ἄνωθεν παραγίνεσθαι, τὸ δὲ μεμε-
ρισμένον καὶ τὸ ἴδιον ἐκ τῶν δευτέρων. ὅθεν οἱ δεύτεροι νόες
ταῖς τῶν εἰδῶν μερικωτέραις διακρίσεσιν ἐπιδιαρθροῦσί πως καὶ
λεπτουργοῦσι τὰς τῶν πρώτων εἰδοποιΐας.


92 Omnis intelligentia plena est formis; verumtamen ex intelligentiis sunt quae continent formas minus universales et ex eis sunt quae continent formas plus universales.
93 Quod est quonium formae quae sunt in intelligentiis secundis inferioribus per modum particularem, sunt in intelligentiis primis per modum universalem; et formae quae sunt in intelligentiis primis per modum universalem sunt in intelligentiis secundis per modum particularem.
94 Et in primis intelligentiis est virtus magna, quoniam sunt vehementioris unitatis quam intelligentiae secundae inferioris; et in intelligentiis secundis inferioribus sunt virtutes debiles, quoniam sunt minoris unitatis et pluris multiplicitatis.
95 Quod est quia intelligentiae quae sunt pronpiquae uni, puro vero sunt minoris quantitatis et majoris virtutis, et intelligentiae quae sunt longinquiores ab uno, puro vero sunt pluris quantitatis et debiliores virtutis.
96 Et quia intelligentiae propinquae, puro vero sunt minoris quantitatis et maioris virtutis, accidit inde ut formae quae procedunt ex intelligentiis primis, procedant processione universali unita (...).
97 Et nos abbreviamus et dicimus quod formae quae adveniunt ex intelligentiis primis secundis sunt debiliores processionis et vehementiores separationis.
98 Quapropter fit quod intelligentiae secundae proiciunt visus suos super universalem formam, quae est in intelligentiis universalis, et dividunt eam et separant eam, quoniam ipsae non possunt recipere illas formas secundum veritatem et certitudinem earum, nisi per modum secundum quem possunt recipere eas, scilicet per separationem et divisionem.
99 Et similiter aliqua ex rebus non recipit quod est supra eam nisi per modum secundum quem potest recipere ipsum, non per modum secundum quem est res recepta.

投稿者 Masaki : 14:57