2005年10月24日

No.67

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.67 2005/10/22

------イベント情報---------------------------
食の秋

中世プロバーとかではないのですが、いかにも秋にふさわしい研究イベント(フ
ランス関連)が東京の日仏会館、日仏学院で行われているようです。日仏会館で
は「食とグローバリゼーション」というタイトルのもと、映画上映や講演会、シ
ンポジウムなどが行われています。ちょっとマークしていなかったのですが、
10月15日・16日には「歴史的観点から見る料理」というシンポジウムがあった
ようです。当日のプログラムを見ると、「ルネッサンス期のヨーロッパにおける
すべての食物の連鎖」(アレン・グリエコ)なんて実に面白そうな題目の講演も
あります。ルネッサンス期の文化的基盤は中世のそれといわば地続きですから、
個人的にはちょっと聴いてみたかった気がします(食物の連鎖って、なんだか存
在の連鎖あたりの話なんか絡んできたりしそうですよね……)。11月の始め
に、今度は「飲むことの様態とその世界」というシンポジウムが予定されていま
す。

このイベント、副題として「ブリア・サヴァラン生誕250周年記念」と銘打って
います。ブリア・サヴァランというのは18世紀の美食家なのだそうで、ラム酒
生地のケーキ「サヴァラン」はその人物にちなんでつけられたものだそうです
(『フランス・食の事典』、日仏料理協会編、白水社)。日仏学院のイベントの
ほうも、「飲むことと食べること」と題してこのサヴァランを記念し、講演会や
展示会のほか即売会まで予定されています。29日にはなんとあのタイユバンの
料理を再現するイベントもあるのだとか。タイユバンは有名な14世紀の料理人
ですね(本名はギヨーム・ティレル)。フランス語最古の料理書『Le
Viandier』を記した人物でもあります。今日のフランス料理の基礎(4回に分け
るサーヴィス方法など)は、このタイユバンに由来するのだといいます。再現イ
ベントのほうは、予定のメニューも掲載してあります(アーモンドのポター
ジュ、子羊のミント煮、鶉肉のチーズ詰め、ブラマンジェ、洋梨のパテ、オレン
ジのコンフィ)。

食の歴史というのも、まだまだ未知の部分が多いように思います。中世の文献
も、13世紀ごろまでは食への直接の言及というのはそれほど多くなさそうです
が、上の食物の連鎖という表現で思ったのは、当然絡んでくる自然誌・博物誌的
な問題です。このあたり、なかなか見逃せないテーマではあります。ご興味のあ
る方は以下をチェックしてみてください。

日仏会館のイベント情報:http://www.mfj.gr.jp/index-j.html
日仏学院のイベント情報:http://www.ifjtokyo.or.jp/culture/index_j.html


------中世の古典語探訪「ラテン語編」------
第17回:分詞

今回は「分詞」です。英語の「ing」形に相当するものです。ラテン語にはこれ
に現在・完了(受動)・未来の時制があるのでした。

現在分詞の作り方は基本的に-nsの語尾をつけて、amans、audiensのようにし
ます。この語尾は例によって格変化します。変化は辞書などでご確認ください。
注意が必要なのは単数の奪格で、-nteないし-ntiになります(後者は与格と一緒
ですね)。完了分詞は語根に第一変化形容詞の語尾-us、-a、-umが付いた形
で、amatusのようになります。未来分詞は語根に-urus、-ura、-urumが付きま
す。

分詞はまず形容詞のように使うことができるのでした。sequenti annoというと
「翌年」ということになります。また名詞としても使われます。audientesで
「聴衆」、circumstantesで「周囲の人々」を指したりします。また、名詞を形
容する形で付帯状況を述べることができます。例:Avarus propriae est causa
miseriae, ingerens sibi sitim avaritiae.(「強欲な者は、その欲求を自分に吹き
込むがゆえに、貧困の原因になる」)、Audiens sapiens sapientior est(「人
の話を聞くことで、賢者はいっそう賢くなる」)。

中世のラテン語では、現在分詞にsumを伴うことがあります(ウルガタ聖書以
降)。例:qui dum erat orans in cubiclo suo vocem audivit (「自室で祈りを
捧げている最中に、彼は声を聞いた」)。この点には注意が必要かもしれませ
ん。

(このコーナーは"Apprendre le latin medieval", Picard, 1996-99をベースに
しています)


------文献講読シリーズ-----------------------
プロクロス『神学提要』その14

今回は『原因論』の提題12(または13)と、それに対応しているとされる『提
要』の提題167を見てみます。例によって原文はこちらに挙げておきます。
http://www.medieviste.org/blog/archives/000619.html

# # #
『神学提要』提題167

(167) すべての知性は自分自身について知解する。ただし、第一の知性は自分
自身についてのみ知解し、そこでは知性とその対象は数の上で一つとなる。それ
に続くそれぞれの知性は、自分自身と先行するものについて知解する。そこでの
知性の対象は、あるがままのそれ自身であるとともに、それが生じたもとであ
る。
 あらゆる知性は、自分自身を、あるいは自分の上位のものを、または自分に続
くものを知解する。
 だが、後に続くものを知解する場合、知性的存在は下位のものに向かう。だが
その知性は、向かった先の対象をみずからは認識できない。というのもその場
合、知性は対象の内部にではなく外部にあるからだ。知性は、対象の刻印、つま
り対象によって内に生じたものしか認識できない。知性は自分が保持するもの、
受け取ったものを知るが、保持していないもの、受け取っていないものは知りえ
ない。
 上位のものを知解する場合、しかも自分自身の認識によって知解する場合、知
性は同時に自分自身をも知解する。上位のもののみ認識する場合には、知性的存
在は自分自身を認識できない。先行するもの全体を認識する場合、先行するもの
が原因をなしていることや、何の原因になっているのかも認識することになる。
それを認識できない場合、存在によってそれが導いたものも、それが導くもの、
導かないものも認識できない。先行するものが支え、原因となっているものを認
識すると、そこから、自分自身を支えるものも認識される。先行するものを認識
すれば、すべからく自分自身もまた認識されるのである。
 知解の対象になるなんらかの知性がある場合、その知性は自分自身を知るとと
もに、知解可能なものを知解の対象として、しかもおのれに一致するものとして
知る。後続するそれぞれの知性は、自分の中にある知解可能なものと、自分に先
行するものとを知解する。このように、知解可能なものは知性の中にあり、知性
は知解可能なものの中にあるのである。とはいえ、知性は知解可能なものに一致
するか、また自分の中にある「知解するもの」に一致するが、先行する知性とは
一致しない。絶対的な知解の対象と、知解するものの中にある知解の対象とは別
物なのだ。

『原因論』提題12(13):109節から114節

109 すべての知性は自分自身の本質を理解する。
110 知解するものと知解されるものとは同じだからだ。したがって知性とは知
解するもの、知解されるものであり、かくして疑いなく、自分自身の本質を目に
するのだ。
111 また知性は、自分自身の本質を目にする際、知性によって自身の本質を理
解するのだということも知る。
112 また知性は、自分自身の本質を知る際、下位にある残りの事物も知る。な
ぜならそれらの事物は、知性から生じたものだからだ。
113 とはいえ、それらが知性の中にあるのは、知解可能な形でである。した
がって知性と知解される事物とは一つである。
114 それはつまり、知解される事物と知性とが一つであり、知性は自分自身の
存在を知り、よって疑いなく、自分自身の本質を知る際には残りの事物をも知
り、残りの事物を知る際には本質をも知る、ということだ。というのも、残りの
事物を知るという場合、それらまで知るのは、それらが知解されるものであるか
らにほかならない。したがって、前述したように、知性は自分自身の本質を知る
と同時に、知解される事物をも知るのである。
# # #

今回の箇所は、知性の自己認識・自己同一性について論述されています。例に
よって、『提要』が細かく下位のものや上位ものについて考察しているのに対
し、『原因論』では「下位にある残りの事物」でひとくくりにしているほか、
『提要』が「自分自身(heauton)」を知解するとしているのに対し、『原因
論』では「自分自身の本質(essentiam suam)」を知解するとしています。
『原因論』の場合、どこか意味を明確にしようという意思が働いているように思
えます。一つにはテクストが翻訳を経ている(ギリシア語からアラビア語へ、さ
らにアラビア語からラテン語へ)ことによって、意味の明示指向が強まったと推
測できます。ですがそれだけにとどまりません。前回も少し触れたように、そこ
には体系的なシフトも絡んできていそうです。そもそも、多神教的な言及が散見
されるプロクロスに対して、『原因論』はあくあ一神教の観点から、余分な部分
を削除しているということも言えると思います。このこともまた、丁寧に追って
みたら面白そうですね。

さらに、前回紹介したダンコーナ・コスタの議論では、とりわけ重要な論点とし
て、第一原因と「純粋な」存在を同一視している点が『原因論』の大きな特徴だ
としています(プロクロスでは、第一原因の下に「実有(onto_s on」は来てい
るのでした)。さらにその存在は、永遠にも先立つものだとされているといい、
この点は、もう一つのソースではないかとされるプロティノスの『エンネアデ
ス』アラビア語版にも見当たらないといいます。ダンコーナ・コスタはここで、
意外なソースを出してきます。偽ディオニュシオス・アレオパギタの『神名論』
第5章です。そこでは神が「実有」に重ね合わされ、すべての事物の存在は『永
遠以前の存在から(ex tou proaio_no_s ontos)派生する」とされています。
『原因論』が、プロクロス、プロティノス、偽ディオニュシオス・アレオパギタ
が交差する場所になっているのですね。いや〜、新プラトン主義の広範な世界の
一端が浮かび上がってくるようで、とても興味深いです。そういうことを念頭に
テキストを改めて眺めると、抽象的でわかりにくいものが、なんだか色めきたっ
て見えてくるから不思議です(笑)。

さて、次回から今度は『原因論』の提題25から28をさらってみようと思いま
す。この箇所はちょうど『提要』の提題45〜48に対応する箇所で(ちょっと順
番は違うのですが)、実体について論じた箇所です。また、『原因論』の中世へ
の影響といった話も、少しだけでも触れていきたいと思っています。


*本マガジンは隔週の発行です。次回は11月05日の予定です。

投稿者 Masaki : 08:51

2005年10月22日

講読用原文14

(167.)  Πᾶς νοῦς ἑαυτὸν νοεῖ· ἀλλ’ ὁ μὲν πρώτιστος ἑαυτὸν
μόνον, καὶ ἓν κατ’ ἀριθμὸν ἐν τούτῳ νοῦς καὶ νοητόν· ἕκαστος
δὲ τῶν ἐφεξῆς ἑαυτὸν ἅμα καὶ τὰ πρὸ αὐτοῦ, καὶ νοητόν ἐστι
τούτῳ τὸ μὲν ὅ ἐστι, τὸ δὲ ἀφ’ οὗ ἐστιν.
   ἢ γὰρ ἑαυτὸν νοεῖ πᾶς νοῦς ἢ τὸ ὑπὲρ ἑαυτὸν ἢ τὸ μεθ’
ἑαυτόν.
   ἀλλ’ εἰ μὲν τὸ μεθ’ ἑαυτόν, πρὸς τὸ χεῖρον ἐπιστρέψει νοῦς
ὤν. καὶ οὐδὲ οὕτως ἐκεῖνο αὐτὸ γνώσεται, πρὸς ὃ ἐπέστρεψεν,
ἅτε οὐκ ὢν ἐν αὐτῷ, ἀλλ’ ἔξω αὐτοῦ, τὸν δὲ ἀπ’ αὐτοῦ τύπον
μόνον, ὃς ἐν αὐτῷ γέγονεν ἀπ’ ἐκείνου· ὃ γὰρ ἔχει, οἶδε, καὶ ὃ
πέπονθεν, οὐχ ὃ μὴ ἔχει καὶ ἀφ’ οὗ [οὐ ]πέπονθεν.
   εἰ δὲ τὸ ὑπὲρ αὐτόν, εἰ μὲν διὰ τῆς ἑαυτοῦ γνώσεως, ἑαυτὸν
ἅμα κἀκεῖνο γνώσεται· εἰ δὲ ἐκεῖνο μόνον, ἑαυτὸν ἀγνοήσει νοῦς
ὤν. ὅλως δέ, τὸ πρὸ αὐτοῦ γινώσκων, οἶδεν ἄρα ὅτι καὶ αἴτιόν
ἐστιν ἐκεῖνο, καὶ ὧν αἴτιον· εἰ γὰρ ταῦτα ἀγνοήσει, κἀκεῖνο
ἀγνοήσει τὸ τῷ εἶναι παράγον, [ἃ παράγει, καὶ ]ἃ παράγει μὴ
γινώσκων. ὃ δὲ ὑφίστησι καὶ ὧν αἴτιον τὸ πρὸ αὐτοῦ γινώσκων,
καὶ ἑαυτὸν ἐκεῖθεν ὑποστάντα γνώσεται. πάντως ἄρα τὸ πρὸ
αὐτοῦ γινώσκων γνώσεται καὶ ἑαυτόν.
   εἰ οὖν τις ἔστι νοῦς νοητός, ἐκεῖνος ἑαυτὸν εἰδὼς καὶ τὸ νοητὸν
οἶδε, νοητὸς ὤν, ὅ ἐστιν αὐτός· ἕκαστος δὲ τῶν μετ’ ἐκεῖνον τὸ
ἐν αὐτῷ νοητὸν νοεῖ ἅμα καὶ τὸ πρὸ αὐτοῦ. ἔστιν ἄρα καὶ ἐν
τῷ νῷ νοητὸν καὶ ἐν τῷ νοητῷ νοῦς· ἀλλ’ ὁ μὲν τῷ νοητῷ ὁ
αὐτός, ὁ δὲ [τῷ νοοῦντι ]τῷ μὲν ἐν αὐτῷ ὁ αὐτός, τῷ πρὸ αὐτοῦ
δὲ οὐχ ὁ αὐτός· ἄλλο γὰρ τὸ ἁπλῶς νοητὸν καὶ ἄλλο τὸ ἐν τῷ
νοοῦντι νοητόν.


109 Omnis intelligentia intelligit essentiam suam
110 Quod est quia intelligens et intellectum sunt simul, cum ergo est intelligentia intelligens et intellectum, tunc procul dubio videt essentaim suam.
111 Et, quando videt essentiam suam, scit quod intelligit per intelligentiam essentiam suam.
112 Et, quando scit essentaiam suam, scit reliquas res quae sunt sub ea, quoniam sunt ex ea.
113 Verumtamen in ea sunt per modum intellectibilem. Ergo intelligentia et res intellectae sunt unum.
114 Quod est quia si res intellectae et intelligentia sunt unum, et intelligentia scit esse suum, tunc procul dubio quando scit essentiam suam, scit reliquas res, et, quando scit reliquas res, scit essentiam, quia, quando scit reliquas res, ipsa non scit eas nisi quia sunt intellectae. Ergo intelligentia scit essentiam suam et scit res intellectas simul, sicut ostendimus.


投稿者 Masaki : 10:59

2005年10月10日

No.66

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.66 2005/10/08

*今号は都合により、短縮版とさせていただきます。


------中世の古典語探訪「ラテン語編」------
第16回:関係詞

今回は関係詞を復習しておきましょう。関係詞というのは早い話、一語を節で
もって修飾する際に、その一語と節とをつなぐ役割をするものですね。ラテン語
でも多用されます。

基本は先行詞とよばれるその被修飾語と、性・数が一致することです。格は節の
中での働きに応じて変化します。puella quae venit(やって来る娘)という場
合、関係代名詞は女性・単数なので、quiやquodではなくquae、しかも修飾節の
主語になっていますから主格のquaeとなります。

先行詞が不特定なものを指す場合には、明示されません。qui bene amat bene
castigat(よく愛する者はよく罰する)という場合、不特定な先行詞としてisな
どが省略されていると考えてもよいでしょうし(is qui bene ...)、agit qod
cupit(彼はやりたいことをやる)という場合も、idなどが省略されていると見
なしていいでしょう(agit id quod ...)。

こうした代名詞が先行詞にくっついて、限定性を強める場合もあります。
terram quam a monachis acceperat(僧侶たちから受け取った土地)に対し
て、eam terram quam a monachis acceperat(僧侶たちから受け取ったその
土地)というと、まさにその土地、という感じで意味が強まります。

ラテン語では、関係詞を先行詞の前に置くこともできるのでした。Quas
scripsisti lietteras legi(あなたが書いた文字を私は読んだ)の場合、本来の語
順ならlegi litteras quas scripsistiとなるところです。さらに関係詞が前に出る
ことで、接続詞的な意味を担う場合があります。これも頻繁に目にするもので
す。
--- Ad te scripsi. Quas litteras non accepisti. (私はあなたに手紙を書いた。
けれどもあなたはその手紙を受け取らなかった)
--- Coenobium edicifavit, Quod hodie pene est destructum. (彼は修道院を
建てた。けれどもそれは、今やほとんど破壊されている)

また、-cumqueという接尾辞を関係詞につけると、「〜なものすべて」の意味
になります。quisquis、quidquid(quicquid)も同じ意味になります(こちらは
男性形と中性形のみ)。
--- Quicumque id fecerit anathema erit. (これをする者はみな、破門になるだ
ろう)
また、関係副詞にはubi、quo、unde、quaなどがあります。

(このコーナーは"Apprendre le latin medieval", Picard, 1996-99をベースに
しています)


------文献講読シリーズ-----------------------
プロクロス『神学提要』その13

今回は『提要』の提題103と、『原因論』の提題12(103節から108節)を見
てみましょう。例によって原文はこちらに掲げておきます。
http://www.medieviste.org/blog/archives/000607.html

# # #
『神学提要』:
(103)あらゆるものはあらゆるものの中に、それぞれに固有の形で存在する。
存在の中には生命と知性が在り、生命の中には存在と知性が在り、知性の中には
存在と生命が在る。ただし時には知性的に、時には生命的に、時には存在的に在
る。
 それぞれは原因により、または実体により、あるいは参与により在るのであ
り、それゆえ第一のものの中に、残りのものは(第一のものを)原因として在
る。第二のものにおいては、第一のものは参与の対象として、また第三のものは
(第二のものを)原因として在る。第三のものにおいては、それに先行するもの
は参与の対象として在る。存在の中に生命と知性はあらかじめ在るが、それぞれ
が特徴づけらるのは実体によってであり、原因(というのも原因は別様だから
だ)や参与(それが参与するものは別様に存在するからだ)によってではない。
ここでの生命と知性は、実体的生命、実体的知性として存在的に在る。生命の中
に存在は参与の対象として在り、知性は生命を原因として在る。ただしいずれも
生命的に存在する(この場合実体は生命のもとにあるからだ)。知性の中に生命
と存在は参与の対象としてあり、それぞれ知性的に存在する(知性にとっての存
在とは認識能力をいい、知性にとっての生命とは認識そのものをいうからだ)。

『原因論』
103 あらゆる第一のものは、そのうちの一つが他の中に在るような形で、他の
ものの中に在る。
104 それはつまり、生命と知性が存在の中に在り、存在と知性が生命の中に在
り、存在と生命が知性の中に在るからだ。
105 しかしながら、知性の中の存在と生命は二つの「アラキリ(alachili)」
つまり知性であり、生命の中の存在と知性は二つの生命、存在の中の知性と生命
は二つの存在をなしている。
106 このようであるのは、第一のもののうちの任意の一つは、原因か結果のい
ずれかだからにほかならない。結果は原因の中に、原因の形で在り、原因は結果
の中に、結果の形で在る。
107 われわれは簡潔に次のように述べよう。任意の事物に原因の形で働きかけ
る事物は、まさにそれが前者の原因であるという形でその前者の中に在る。ちょ
うど魂の中に感覚が霊魂的な形で在り、知性の中の魂が知性的な形で在り、存在
の中の知性が存在的な形で在り、知性の中の第一の存在が知性的な形で在り、魂
の中の知性が霊魂的な形で在り、感覚の中の魂が感覚的な形で在るように。
108 われわれは次のように結論づけよう。上に述べたことにもとづき、魂の中
の感覚、第一原因の中の知性は、それぞれの形で在る。
# # #

『原因論』の105節に出てくるalachiliは、アラビア語で「知性」を意味するal-
aqliだと思われます。アラビア語版の残滓がこんなところに見られるのですね。

今回はいきなり存在と生命と知性の話がでてきていますが、これらの概念はプロ
クロスの体系論に密接に関係しています。イタリアの研究者ダンコーナ・コスタ
の『原因論研究』("Recherches sur le Liber de causis", Vrin, 1995)の最初
の論考が、このあたりのことを実に端的に整理してくれています。プロティノス
の体系では、発出の関係は3つの項から成っていました。つまり一者、知性
(ヌース)、魂です。ところがプロクロスは、一から多が生じることになってし
まうというアポリア(同質のものからは同質のものしか生じない、とされるから
です)を解消するために、2番目の位相をさらに細かなレベルに分けるのでした
(このアイデアはイアンブリコスから継承したものとされます)。一者から直接
に知性が導かれるのではなく、そこに「真の存在」とか「実際的な存在(実
有)」とか言われるものが置かれる、と考えるのです。これはいわば知解可能な
ものということで、それを知解する知性に先行します。そしてこの知解可能なも
の(実有)と知性という二つの原理の関係が生命であるとされるのです。存在、
知性、生命は、このように体系の二つの位相とその相互の関係性に対応するもの
なのですね。提題103の内容は、実有を通して見れば、それを知解する当の知性
や、知性との関係性である生命もまた実有として捉えられ、知性から見れば、実
有(存在)もその関係性である生命も知性として捉えられ、生命から見る場合も
しかり、ということになります。

プロクロスのテキストがこうした体系に支えられているのに対し、『原因論』で
は存在・生命・知性の3項に言及したあと、すぐさまやや曖昧な比喩の形で魂・
感覚・知性の関係が引き合いに出され、いつの間にか、第一原因(一者)におけ
る知性と、魂における感覚がパラレルであるという話に「すり替わって」いま
す。なんだか奇妙な感じですね。

上のダンコーナ・コスタの論考の主要論点の一つは、『原因論』がプロクロスだ
けでなくプロティノスをも参照している、という議論です。内容的に、『原因
論』はプロクロスの体系をいわば簡略化していて、その結果プロクロスよりもプ
ロティノスの体系に近づいていると指摘されます。プロクロスの場合には知性と
実有は同時に存在してはいてもイコールにはならないのに対して、『原因論』で
は知性と実有は単一・同一の現実をなしている、というわけです。また実際に、
プロティノスのアラビア語に翻訳された版との類似性は31の全提題のうち14に
散見されるといいます。

こうした点も念頭に今回の箇所を見直してみると、確かに『原因論』のほうで
は、第一のもの(一者・第一原理)において知性・生命・存在が一体になってい
ることが強調され、『提要』にあった原因・実体・参与という3つの「在り方」
は省かれて、すべてが原因と結果の関係に集約されてしまっています。こうし
て、第一のものは知性を導き、魂は感覚を導くという話へと横滑りしていくわけ
ですね。魂の中に感覚が霊魂的な形で在る、というあたり、確かにプロティノス
的な感じもします(とはいえ引用というわけでもないようですが)。少なくと
も、ベースになっている体系的な考え方が異なっていることがおぼろげながら感
じ取れます。

影響関係・引用関係の実証的な議論には今のところとうてい深い入りできませ
ん。とはいえ、『原因論』がプロクロスのテキストからどう逸脱しているかとい
う問題は、なかなか面白い部分です。このあたり、次回も引き続き検討してみた
いと思います。


*本マガジンは隔週の発行です。次回は10月22日の予定です。

投稿者 Masaki : 22:14

2005年10月07日

講読用原文13

(103.)  Πάντα ἐν πᾶσιν, οἰκείως δὲ ἐν ἑκάστῳ· καὶ γὰρ ἐν τῷ
ὄντι καὶ ἡ ζωὴ καὶ ὁ νοῦς, καὶ ἐν τῇ ζωῇ τὸ εἶναι καὶ τὸ νοεῖν,
καὶ ἐν τῷ νῷ τὸ εἶναι καὶ τὸ ζῆν, ἀλλ’ ὅπου μὲν νοερῶς, ὅπου
δὲ ζωτικῶς, ὅπου δὲ ὄντως ὄντα πάντα.
   ἐπεὶ γὰρ ἕκαστον ἢ κατ’ αἰτίαν ἔστιν ἢ καθ’ ὕπαρξιν ἢ κατὰ
μέθεξιν, ἔν τε τῷ πρώτῳ τὰ λοιπὰ κατ’ αἰτίαν ἔστι, καὶ ἐν τῷ
μέσῳ τὸ μὲν πρῶτον κατὰ μέθεξιν τὸ δὲ τρίτον κατ’ αἰτίαν, καὶ
ἐν τῷ τρίτῳ τὰ πρὸ αὐτοῦ κατὰ μέθεξιν, καὶ ἐν τῷ ὄντι ἄρα ζωὴ
προείληπται καὶ νοῦς, ἑκάστου δὲ κατὰ τὴν ὕπαρξιν χαρακτηρι-
ζομένου καὶ οὔτε κατὰ τὴν αἰτίαν (ἄλλων γάρ ἐστιν αἴτιον )
οὔτε κατὰ τὴν μέθεξιν (ἀλλαχόθεν γὰρ ἔχει τοῦτο, οὗ μετείλη-
φεν ), ὄντως ἐστὶν ἐκεῖ καὶ τὸ ζῆν καὶ τὸ νοεῖν, ζωὴ οὐσιώδης καὶ
νοῦς οὐσιώδης· καὶ ἐν τῇ ζωῇ κατὰ μέθεξιν μὲν τὸ εἶναι, κατ’
αἰτίαν δὲ τὸ νοεῖν, ἀλλὰ ζωτικῶς ἑκάτερον (κατὰ τοῦτο γὰρ ἡ
ὕπαρξις )· καὶ ἐν τῷ νῷ καὶ ἡ ζωὴ καὶ ἡ οὐσία κατὰ μέθεξιν,
καὶ νοερῶς ἑκάτερον (καὶ γὰρ τὸ εἶναι τοῦ νοῦ γνωστικὸν καὶ ἡ
ζωὴ γνῶσις ).


103 Primorum omnium quaedam sunt in quibusdam per modum quo licet ut sit unum eorum in alio.
104 Quod est quia in esse sunt vita et intelligentia, et in vita sunt esse et intelligentia, et in intelligentia sunt esse et vita.
105 Verumtamen esse et vita in intelligentia sunt duae alachili, id est intelligentiae, et esse et intelligentia in vita sunt duae vitae, et intelligentia et vita in esse sunt duo esse.
106 Et illud quidem non est ita nisi quia unum quodque primorum aut est causa aut causatum. Causatum ergo in causa est per modum causae et cuasa in causato per modum causati.
107 Et nos quidem abbreviamus et dicimus quod res agens in rem per modum causae non est in ea nisi per modum quo est causa eius, sicut sensus in anima per modum animalem, et anima in intelligentia per modum intellectibilem, et intelligentia in esse per modum essentialem, et esse primum in intelligentia per modum intellectibilem et intelligentia in anima per modum animalem, et anima in sensu per modum sensibilem.
108 Et redeamus et dicamus quod sensus in anima et intelligentia in causa prima sunt per modos suos, secundum quod ostendimus.

投稿者 Masaki : 16:51