2005年12月18日

No. 71

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.71 2005/12/17

-------年末年始の発行予定-------------------
早いものでもう年末です。通常は隔週発行の本メルマガも年末年始はお休みとし
ます。年内は本号で終了とし、年明けは1月14日からの発行となります。

本メルマガもおかげさまで70号を越えることができました。これも皆様のご支
援の賜物です。来年もどうぞよろしくお願いいたします。


------中世の古典語探訪「ラテン語編」------
(Based on "Apprendre le latin medieval", Picard, 1996-99)

第21回:不定法その1

今回取り上げる文法事項は不定法(不定詞)です。ラテン語の場合、不定法にも
現在形、完了形、未来形があるのでした。さらに能動態、受動態がそれぞれあり
ます。形についてはここでは割愛しますが(文法書を参照のこと)、規則的です
のでそんなに難しくはありません。

意味としては基本的には動詞の名詞形を表します(〜すること)。ですから主語
や補語、目的語に使うことができます。格変化はありません。
- furari peccare est(盗みは罪である)
- cupio legere(私は読書がしたい)

中世ラテン語では、こうした名詞用法はさらに拡大し、dare bibere(飲むもの
を与える)、ire visere(訪問しに行く)といった目的を表す用法も出てくるの
ですね。さらにその目的の意味を明確にするために前置詞を添えたりもします。
- carnem dare ad manducare(食べるために肉を与える)

さらには形容詞的な用法も出てきますし、使役の用法もあります。
- cognosci utilia (知っておいて便利なこと)
- facere venire(来させる)。

さらに古代末期から中世に受け継がれた用法として、名詞用法の不定詞に形容詞
がつくという形も多々見られるようです。神についてよく言われるsimplex esse
(単一の存在)や、juxta meum velle(私の望む通りに)、nostrum
consentire(われわれの合意)といった用例が代表的なものとか。

さらに重要なものとして不定法構文がありますが、これはまた次回に詳しく見て
いくことにします。


------文献講読シリーズ-----------------------
プロクロス『神学提要』その18

今回はこの『神学提要』の最終回ということで、本文として短い提題48を見て
から、全体を振り返って一応の総括をしたいと思います。原文はこちら。
http://www.medieviste.org/blog/archives/000665.html

# # # #
(48) 永遠でないすべてのものは複合的であり、他によって支えられている。
 解体可能であるものは、それを成り立たせている存在へと解体されるか−−解
体されるものが全体的に結びついて、それができているのである−−、あるいは
また、下支えを必要とし、下支えが放棄されればなくなってしまうかのいずれか
である。もし単一で、おのれ自身のもとにあるのであれば、解体可能ではなく、
分割しえないものなのである。
# # # #

短い提題ですが、前回と今回の部分は、この拾い読みの1回目から続いている一
者についての文言のまとめのような文章ですね。『原因論』で対応している提題
は191節から193節です。『原因論』の方では提題は「破壊されうる永遠でない
すべてのものは、複合的であるか、他の事物に担われている」になっています。
また、『神学提要』では前回の47の次にこの48が置かれているのに対し、『原
因論』は前回の47対応分の前にこの48対応分が置かれています。この結果、印
象としては、『神学提要』が一者(自立するもの)の性質に力点を置いているの
に対し、『原因論』はむしろ、一者の性質を語りながらそうでないものをも強調
する、両者の輪郭をきっちり際立たせる、という感じになっているように思えま
す。一神教的コントラストでしょうか?順番を入れ替えている意図がどこにあっ
たのかは難しい問題ですが、一つにはそういう強調点のずれがあるように思える
のです。このように全体的な構成の問題も、思想体系の違いとからめて考えてみ
れば面白いかもしれません。

さて、前回は『原因論』の中世での受容についておおまかなところを確認しまし
た。それへの補足になりますが、テレーズ・ボナンのアルベルトゥス・マグヌス
に関する著書("Creation as Emanation", University of Notre Dame Press,
2001)の記述によると、『原因論』はクレモナのゲラルドゥス(1187年没)
によってアラビア語からラテン語に翻訳されたのだそうです。ムエルベケのグイ
レルムスが1268年に『神学提要』の翻訳(ギリシア語からラテン語)を終えた
ことで、トマス・アクィナスは両者の関連性に言及できたのだそうです。

では『原因論』はいつごろアラビア世界で書かれたのでしょうか?たびたびご登
場願っているダンコーナ・コスタは、別の著書("La Casa della Sapienza",
Guerini e associati, 1996)で一般論的に、アラビア世界でギリシアの思想書の
編纂作業が行われたのは9世紀以降(アッバス朝:現イラクあたりです)だった
としています。その中の一冊として、『神学提要』をベースにした『純粋善につ
いての論』という編纂ものが編まれます(場所はやはりメソポタミア地方で
す)。これがラテン世界に『原因論』として入ったものなのですが、ラテン世界
で多く出回ったのとは対照的に、アラブ世界ではあまり出回っていないようで、
現存する写本は3つしかないのだとか。また、『原因論』には中世アラブ世界の
最初の大人物アル・キンディ(バスラ生まれで後にバグダッドの宮廷に仕えた9
世紀のイスラム哲学者)の影響もあるということです。井筒俊彦『イスラーム思
想史』によると、アル・キンディは、当時優勢だった一種の急進イスラム主義の
一派、ムアタズィラ派の教義が、プラトン主義化されたアリストテレス思想に一
致すると考えていたのだそうです。こうしてアリストテレス思想導入の端緒が開
かれたのでした。

今回、『神学提要』と『原因論』の拾い読みを始めたのは、「一」から「多」が
どのように発するのか、という中世の大問題について概観するきっかけとするた
めでした。中世に流布した新プラトン主義では、とくにその「流出論」におい
て、プロクロスのように多数の中間段階を設けるのではなく、プロティノス流
に、一者(神)がまず知性を創り、その知性がその他を創るという図式が優勢
だったことも、読み進める中で確認しました。そういう思想を中世に伝えた一つ
の中継点が『原因論』だったのは間違いなく、そこにはプロティノスや偽ディオ
ニュシオス・アレオパギタ文書などの思想が流れ込んでいる、ということも一応
押さえておきました。

とはいえ、まだまだこれはほんのさわりです。そもそも中世の受容の過程におい
て、一者・知性・魂の関係はそれぞれの代表的著者によって微妙に異なってもい
るようです。アルベルトゥス・マグヌスは流出論に過程的な発想を取り入れてい
くようですし、マイスター・エックハルトにいたっては、神と知性とはイコール
であって(神は存在ではない、と彼は言います)、存在はすべて創造されたもの
なのだ(パリ時代の討論集)という方向で考え方を先鋭化していきます。このあ
たりのそれぞれのテキストはとても面白いのですが、それらはまた今後別の機会
に別の形で取り上げていきたいと思います。

さて、今年は4月以降、こんな形で拾い読みをしてきましたが、こうしてみると
どうも一つのテキストを通読したいという気分になってきます。そんなわけで年
明けの次号(1月14日)からは、心機一転、グイド・ダレッツォの「ミクロログ
ス」を読んでいきたいと思います。中世のいわゆる思弁的音楽論です。古代から
続く音楽論の伝統の上に立つもので、演奏とかには役立ちませんが(笑)、その
「音の体系化」はプラトン主義的なコスモロジーとも密接に関係しています。
「ドレミファソラシド」の呼称を確立したとして有名なグイドですが、そのテキ
ストはそれほど読まれてはいないと思います。当方も例によって音楽学はそんな
には詳しくありませんので、これまた試行錯誤の旅となりそうですが、おつき合
いいただければ幸いです。それでは皆さん、良いお年を。

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(C) Medieviste.org(M.Shimazaki)
http://www.medieviste.org/
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投稿者 Masaki : 13:39

2005年12月17日

講読用原文18

(48.)  Πᾶν τὸ μὴ ἀΐδιον ἢ σύνθετόν ἐστιν, ἢ ἐν ἄλλῳ ὑφέστηκεν.
   ἢ γὰρ διαλυτόν ἐστιν εἰς ταῦτα ἐξ ὧν ἐστι, καὶ πάντως
σύγκειται ἐξ ἐκείνων εἰς ἃ διαλύεται· ἢ ὑποκειμένου δεόμενον,
καὶ ἀπολεῖπον τὸ ὑποκείμενον οἴχεται εἰς τὸ μὴ ὄν. εἰ δὲ
ἁπλοῦν εἴη καὶ ἐν ἑαυτῷ, ἀδιάλυτον ἔσται καὶ ἀσκέδαστον.

投稿者 Masaki : 14:18

2005年12月04日

No. 70

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.70 2005/12/03

------新刊情報-------------------------
早いもので今年ももう師走です。今年の秋は中世関係の書籍はいつになく不作な
感じでしたが、それでもぼちぼちと出ています。年末年始に見てみたいところで
すね。

『中世のドイツ カール大帝からルターまで』
ハインツ・トーマス著、三佐川・山田訳、創文社
ISBN 4423460610、8925yen

紹介文によると、「ドイツ」という名がアルプス以南に発する他称で、長い文化
接触の末に受容されていったものだということを論じた画期的な一冊なのだそう
です。ドイツのアイデンティティ形成を中世にまで遡って論じているようで、な
るほど確かに東フランク王国以来のドイツは、ローマ帝国に固執していくのでし
た。そのあたりの政治意識というのはとても面白い問題ですね。

『西洋中世世界の発展』(岩波全書セレクション)
今野國雄著、岩波書店
ISBN 4000218743、2835yen
『西洋中世世界の崩壊』(岩波全書セレクション)
堀水庸三著、岩波書店
ISBN 4000218751、2835yen

この2冊は岩波全書の復刊。前者は10から13世紀、後者は14、15世紀を中心と
して中世世界の概観をまとめたもので、すでに堂々たる古典という感じです。

『西洋中世学入門』
高山博・池上俊一編、東京大学出版会
ISBN 4130220195、3990

史料の読み方、活用の仕方などを網羅的にまとめた手引き書のようです。古書体
学や度量学、印章学、図像学などが目白押し。これは押さえておくべき、また活
用できそうな一冊です。しかも結構廉価なのが嬉しいですね。


------中世の古典語探訪「ラテン語編」------
第20回:奪格の用法(2)

前回に引き続き奪格の用法をまとめましょう。起点を表す本来の用法のほか、奪
格には手段の奪格と場所の奪格があるのでした。

手段の奪格というのは、読んで字のごとく手段(広義の)を表します。道具の意
味もあれば、単なる付帯状況の意味もあり、「〜で」「〜とともに」という意味
になります。基本的に、cumなどの前置詞とともに用いられます。
- glaudio occisus est. (彼は刃で殺された)
- cum esiscopo venit. (彼は司教とともにやって来た)

単純に付帯状況を表す場合、名詞だけなら必ずcumをつけますが、形容詞などで
限定されている場合にはcumはつけてもつけなくてもよいというルールがありま
す。
- cum ira(怒って)→ cumは必須。
- cum magna voluptate (大きな喜びとともに)→ magna voluptateだけで
も可。

単純に様態を表す用法もあります。余談ですが、様態を説明する際の時制は、ラ
テン語の場合完了形を使うのですね(フランス語なら半過去にするところで
す)。
- copore fuit amplo atque robusto... (彼は大きく強壮な体つきだった)

さらに経過した時間を表す用法もあります。
- Henricus septem annis Italiam devicit. (ヘンリクスは7年かけてイタリアを
征服した)

一方、場所の奪格は起点以外の場所を表し、inなどの前置詞を伴います(動作が
なされる場所を表します)。古典ラテン語では都市名などにはinがつきません
が、中世ラテン語ではinが多用されるようになります。
- in Alexandria moratus est. (彼はアレクサンドリアにとどまった)

また、これに関連して日時を表す用法もあります。正確な日時を示す場合には前
置詞をつけませんが、そうでない場合にはinが付きます。
- exeo tertia hora(私は3時に出かける)
- In illo tempore (その当時)

(このコーナーは"Apprendre le latin medieval", Picard, 1996-99をベースに
しています)


------文献講読シリーズ-----------------------
プロクロス『神学提要』その17

今回は『神学提要』の提題47を見ておきます。47と48は、対応する『原因論』
では順番が逆になっています。原文は以下に掲げておきます(今回と次回は都合
により『原因論』の訳出は割愛します。ご了承ください)。
http://www.medieviste.org/blog/archives/000654.html

# # # #
『神学提要』
(47)自立するすべてのものは、部分をもたず単一である。
 自立しながらも部分をもつのであれば、みずからが部分を支えることになり、
その全体をみずからに向かわせることになって、あらゆるものがみなあらゆるも
のの中にあることになってしまう。これはあり得ない。したがって自立するもの
は部分をもたない。
 だがそれは単一でもある。もしそれが複合的であるならば、それには劣るもの
と優れたものがあることになり、優れたものは劣ったものから、また劣ったもの
は優れたものから生じることになって、全体が全体以前に存在することになる。
これではみずから生成したことにならず、要素となるものが先行しそれが支えを
なすことになってしまう。ゆえに自立するものはすべて単一なのである。
# # # #

訳は割愛してしまいましたが、これに対応する『原因論』の194節から198節に
ついても簡単に述べておくと、対応しているのは194節から196節までで(それ
ぞれ、提題と本文の2つに対応しています)、197節に補足があり(「部分があ
れば自立していない、単一ではない」)、198節で再び冒頭の提題(lemma)
を繰り返して結論としています。

実はこの、提題(lemma)があってそれに解説を本文として付けるという形式
は、『原因論』の中世での受容に大きな影響を与えたらしいのです。以前言及し
たダンコーナ・コスタの論集の収録論文によると、『原因論』への注解を早くに
(と言っても13世紀半ばですが)記している人物にロジャー・ベーコンがいる
のですが、彼はこの提題と本文の作者は別人だと考えていました。そして提題の
方の作者はアリストテレスだと考えていたのです。こうした見方は『原因論』の
ラテン世界への流入時からあったもののようですが、とりわけベーコンの表明は
その後の注解に影響を及ぼし、ガンのヘンリクスやボクフェルトのアダムスな
ど、多くの注解者がそうした考え方を踏襲していきます。多少なりとも異彩を放
つアルベルトゥス・マグヌスは、『原因論』とアラビア哲学との親近性を見、本
文はユダヤ人哲学者が独自の見解を添えて記したものだという説を唱えますが、
やはり同じ思考の枠組みを継承しているようです。

そんな中、現代の観点からしても最も的確な解釈をしていたのがトマス・アクィ
ナスでした。トマスはプロクロスの『神学提要』と『原因論』の関連を踏まえ、
アリストテレス寄りの批判的観点でプロクロスを検討します。そしてその一方
で、『原因論』がプロクロスに対してもつ相違点と、偽ディオニュシオス・アレ
オパギタの文書に対してもつ類縁性について鋭い洞察を巡らしていくのですね。
プロクロスがそのコスモロジーにおいて設けている精緻で細かな階層が、『原因
論』ではディオニュシオスを通じて「修正」されている(一神教的に縮約されて
いるわけです)、というのがトマスの認識だったようです。このあたり、トマス
の慧眼を改めて思い知らされます。前々回に触れたブラバントのシゲルスなど
も、トマスの注釈を下敷きにしているといいます。アリストテレス作ではないか
という錯誤のせいで、『原因論』は当時の最良の知性がこぞって注解に取り組ん
だ一冊だったわけですが、このようにトマス以前と以後とでは、その受容にも大
きな断絶が生じているのですね。

さて足早につまみ食いしてきた『神学提要』と『原因論』ですが、次回でとりあ
えずの区切りにしたいと思います。次回は『提要』の提題48を見て、さらにア
ラブ世界での受容と『原因論』の成立についてごく基本的なことを整理しておく
ことにします。お楽しみに。


*本マガジンは隔週の発行です。次回は12月17日の予定です。
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(C) Medieviste.org(M.Shimazaki)
http://www.medieviste.org/
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投稿者 Masaki : 08:54

2005年12月03日

講読用原文17

(47.)  Πᾶν τὸ αὐθυπόστατον ἀμερές ἐστι καὶ ἁπλοῦν.
   εἰ γὰρ μεριστόν, αὐθυπόστατον ὄν, ὑποστήσει μεριστὸν ἑαυτό,
καὶ ὅλον αὐτὸ στραφήσεται πρὸς ἑαυτὸ καὶ πᾶν ἐν παντὶ ἑαυτῷ
ἔσται. τοῦτο δὲ ἀδύνατον. ἀμερὲς ἄρα τὸ αὐθυπόστατον.
   ἀλλὰ μὴν καὶ ἁπλοῦν. εἰ γὰρ σύνθετον, τὸ μὲν χεῖρον ἔσται
ἐν αὐτῷ, τὸ δὲ βέλτιον, καὶ τό τε βέλτιον ἐκ τοῦ χείρονος ἔσται
καὶ τὸ χεῖρον ἐκ τοῦ βελτίονος, εἴπερ ὅλον ἀφ’ ὅλου ἑαυτοῦ
πρόεισιν· ἔτι δὲ οὐκ αὔταρκες, προσδεὲς ὂν τῶν ἑαυτοῦ στοι-
χείων, ἐξ ὧν ὑφέστηκεν. ἁπλοῦν ἄρα ἐστὶ πᾶν ὅπερ ἂν
αὐθυπόστατον ᾖ.

投稿者 Masaki : 08:10