2007年05月29日

No. 104

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
silva speculationis       思索の森
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.104 2006/05/26

------新刊情報--------------------------------
このところ気候もよく、なんとはなしに穏やかな日々が……と思いきや、
そろそろ水不足の話が出てきましたね。この異常な天候、大丈夫なんで
しょうか?

新刊情報、今回はまず文献を集めたものから。

『文献解説--ヨーロッパの成立と発展』
松本宣郎、前沢伸行、河原温著、南窓社
ISBN:9784816503528、3,360yen

ギリシア・ローマ時代から中世、ルネサンス初期までの文献解説というこ
とですが、具体的な中身が不明です。いちおう中世関連ということでリス
トには入れておきましたが……(苦笑)。

○『西欧中世初期農村史の革新--最近のヨーロッパ学界から』
森本芳樹著、木鐸社
ISBN:9784833223881、7,350yen

所領明細帳などの研究が盛んになった、80年代から2004年までの中世初
期の農村史に関する文献目録。こういった基礎資料の目録は、実際に研究
をしようという場合にはとても便利・重要なものですね。各個別分野で、
そうした集成が出てほしい気がしますが……。

『ドイツ中世都市の自由と平和--フランクフルトの歴史から』
小倉欣一著、勁草書房
ISBN:9784326200481、4,935yen

フランクフルトの都市の発展史を、同市が自由と平和をどう獲得していっ
たかという視点から多面的に検討した一冊。中世から初期近世までのスパ
ンで描いているようです。なるほど、都市としての安定は、経済的繁栄の
そもそもの前提条件ですが、それがどう獲得され維持されていったか、と
いうのは案外見過ごされやすい問題かもしれません。

『西欧中世の社会と教会--教会史から中世を読む』
R.W. サザーン著、上條敏子訳、八坂書房
ISBN:9784896948882、5,040yen

著者はイギリスの中世史家(2001年歿)で、数多くの著者を残していま
す。同書は原書が70年刊行のもので、700年から1550年までの教会組織
の変容を、その時どきの社会史の動きと絡めて描いているようです。修道
会各派の動きと宗教運動、というあたりは、先の池上俊一氏の労作なども
あって、ちょっと個人的にも見ておきたいところです。

『四枢要徳について--西洋の伝統に学ぶ』
ヨゼフ・ピーパー著、松尾雄二訳、知泉書館
ISBN:9784862850089、4,725yen

トマス・アクィナスの解釈を中心とした、ヨーロッパの「徳」についての
論。これはちょっと興味深いですね。著者はドイツ出身のキリスト教哲学
者。トマス・アクィナス論のほか、神学論などがあります。同書はその主
著ということです。


------文献探訪シリーズ-----------------------
「イサゴーゲー」の周辺(その11)

アルベルトゥスの注解の続きです。実在否定論、実在擁護論を列挙した
後、いよいよ両者を統合する段となります。そこでのまとめ方は、実在擁
護論の形而上学的な立場を尊重する形で、実在否定論への反論を加える、
という形になっています。

新プラトン主義的な影響が強く感じられるアルベルトゥスだけに、その議
論は発出論の考え方を踏まえたものになっているようです。全体として、
上位に置かれるのは単純なもの、純粋なもの、下位に置かれるのは複合的
なもの、混合したものなのですね。前者からは存在・理性・名前などがも
たらされます。質料形相論的での形相とは、まさにそういうものなのです
ね。後者はいわば地上世界の具体物で、そこには数々の偶有性が生じてい
ます。こうした階層的な分割は、この『イサゴーゲー』注解でも活きてい
ます。

アルベルトゥスは、実在否定論で言う「知性の中にある形相」とはどうい
うことかを再考します。その際の「知性」を、アルベルトゥスは二層に分
けて考えるのですね。一つは、(A)認知と原因をなすような、原初の知解
する知性、もう一つは、(B)抽象作用に依拠する知性です。前者が神の領
域の知性(能動知性)に、後者が人間世界の知性に対応しているのは歴然
としています。次に、知性が捉えるものが形相であるとすると、それもま
た二分されることになります。事物の原理としての形相(a)と、個物から
抽象作用によって取り出される形相(b)です。(A)と(a)、(B)と
(b)がそれぞれ対応しているわけですね。

この分割により、アルベルトゥスは実在否定論に対して難なく切り返すこ
とができるようになります。実在否定論が(B)と(b)を問題にしてい
るのに対し、アルベルトゥスは(A)と(a)から反駁していくのです。
先の実在否定論の個々の議論は、こうして否定されていきます。(1)自然
の中で区別される存在は「一」であるのに、普遍概念は「一」をなさず、
したがって自然の中に存在するものではない、という議論に対しては、普
遍概念はあくまで本質として「一」をなしているのだ、と反論します。
(2)互いに分離できる自然の事物は知性の外に存在しているが、普遍概
念はそうなっていないので知性の外にはない、という議論に対しては、分
離にも本質に関わる分離とそうでない分離とがあるとし、普遍概念は本質
において相互に分離されるのだと反論します。

反論のスタンスはどれも同じです。(3)自然において区別されるのは個
別だけだ、という議論については、個別を個別ならしめている原理があっ
てこそ、個別が成立している事態もありうると反論します。(4)普遍と
個別が存在として同じであるというのは相互に矛盾する、という議論に対
しては、普遍が言うところの「個々」とは、本質・原理において個別なの
だとします。(5)起源の問題はどうなるのかという問いについては、普
遍はもとより自然のうちに起源をもつものではなく、一方で知性の光を源
としつつも、みずからもまた働きかけるものとしてあり、したがって、個
別をもたらす本質としては、もとより生成することも消滅することもな
い、と論じます……云々(続く議論は省略)。

アルベルトゥスにとっての普遍とは、原理のこと、形相のことなのです
ね。述語関係や共通性といったアベラールまでの普遍概念の意味に、生成
のための原理という新しい視座が加わっていることがわかります。もはや
ポルピュリオスの原テキストからは大きく離れてしまっている感じです
が、ここに13世紀の新しい動向を見ることができそうです。そしてこれ
はおそらくアルベルトゥス一人だけのものではありません。この先に、た
とえば(普遍から翻って)個体が個体であることはどういうことかを問
う、ドゥンス・スコトゥスなどの議論も控えています。
(続く)


------古典語探訪:ギリシア語編----------------
「ハリポ」で復習、古典ギリシア語文法(その4)

いくつかのサイトでアナウンスされていたオックスフォード大学出版の春
のセールスが、まだ続いています。さすがにそろそろ終わりじゃないかと
思われるので、ここでも紹介しておきましょう。Oxford Latin
Dictionary(OLD)、Greek-English Lexicon(Liddell & Scott)な
ど、有名どころの大型辞書が半額以下という破格の値段です。OLDは正
規価格315 ドルのところ135ドル、Liddell & Scottは正規価格160ドル
のところ80ドル。本格的に古典語を、とお考えの向きは、この機会にぜ
ひ。今は多少円安ですが、それでもお買い得です。OLDはhttp://
www.us.oup.com/us/catalog/25965/?
view=usa&wt.mc_id=25965b(下のほうです)、Liddell & Scott
http://www.us.oup.com/us/catalog/25965/subject/Language/?
view=usaをご覧ください。

さて引き続き、『ハリー・ポッター』第一巻のギリシア語訳です。今回の
原文表記はこちらをどうぞ(http://www.medieviste.org/blog/
archives/A_P_No.4.html
)。ローマ字表記は前回から古典語サイト
Perseusの検索窓の表記に準じています。さっそく見ていきましょう。

kai megas t' e^n to eidos kai malista ogko^d^s.

この文はまず前半で主語述語が倒置になっていて、主語はto eidos。こ
れで「その容姿は大きかった」になります。t' e^nはte e^nです。teは強
調を表す前接辞です。e^nはbe動詞eimiの未完了過去(3人称、単数)。
kai malista ogko^d^sと続いてます。これもto eidosに対する述語で、
「さらにこの上なく丸々としていた」になります。malistaはmala(very
much)の最上級ですね。

ton men gar auchena ouk e^n raidion idein pachiston onta,
mustaka d' an idois auto^i dasun o^s sphodra.

menも強調(「まさに」)などを表す後置辞です。ここでは後の
d'(de)と合わさって、「一方では〜だが、もう一方では〜」という軽
い対比の意味の定型表現になります。garはよく使われる接続詞で、おも
に理由を表します。ここは不定詞句になっていて、ton auchena
(「首」)がidein(orao^の不定詞)の目的語で、「首を見ること」の
意になります。ouk e^n raidionで「簡単ではなかった」。pachiston
ontaは分詞構文で、auchenaを形容しています。英語ならbeing thickと
なるところです。ここまでで、「というのも、首はずんぐりとしていて、
簡単には目にできなかったからだ」。

mustakaはmustaks(「ひげ」)の対格で、idoisはorao^の希求法、二
人称単数。ここでは不定過去(アオリスト)形です。an+希求法はすでに
出てきました。過去形の希求法には必ずanがつくのですね。auto^iは
「彼に」、dasun(「濃い」)はmustakaにかかり、sphodra(とて
も)も同様、ここでのo^sは、英語のasに類する意味です。これで「その
一方で、ひげはとても濃く、いやでも目についたろう」というふうになり
ます。

今回の復習ポイントは、やはり形容詞・副詞の比較級、最上級でしょう
か。基本的には二種類の系列があり、一方はそれぞれ-teros、-tatosを、
もう一方は-io^n、-istosを付けるのでした(その語尾が格変化します)。
圧倒的に前者が多いのですが、後者もわりと重要な単語で出てきます。
pistos, pisteros, pistotatos
he^dus, he^dion, he^distos

そしてなにより不規則形です。今回でてきたmalaや、その反意語の
mikrosの比較級、最上級など、頻出語が多いですね。文法書で確認して
おきたいところです。
mala, mallon, malista
kakos, he^ton, he^kista
megas, meizon, megistos
mikros, elatton, elachistos
polus, pleon, pleistos
raidios, raion, raistos


------文献講読シリーズ-----------------------
アルベルトゥス・マグヌスの天空論・発出論を読む(その3)

天空は自然によって動くのではない、という議論を紹介した後、アルベル
トゥスは、天空は魂によって動くという説を紹介していきます。その最初
の部分を見てみましょう。

# # #
His ergo rationibus Peripatetici dixerunt communiter caelum non
moveri per naturam. In quo etiam convenerunt cum Stoicis, qui
hoc primi dixerunt quod per naturam non movetur.

Epicurei autem, qui principia motus ponebant figuras et vacuum,
soli dixerunt motum caeli per naturam esse et eius esse principium
rotunditatem atomorum, ex quibus compositum est caelum. Quod
in antehabitis ostendimus absurdum esse.

Avicenna autem, qui vult esse Peripateticus, et Algazel, insecutor
suus, et ante eos Alfarabius et inter Graecos Alexander et
Porphyrius caelum moveri dixerunt ab anima et motum eius
dixerunt esse processivum vel similem processivo motui ab anima,
in quantum imaginativa et electiva, quatuor rationibus, quae
colliguntur ex scriptis eorum.

Quarum una est, quia cum, sicut habitum est, per naturam esse
non possit, non movebitur determinate ab A in B et a B in C et a
C in D et iterum a D in A, nisi concipiat situm B et iterum situm C
et iterum situm D et iterum situm A particulariter et determinate.
Concipiens autem differentias situs particulariter et determinate,
imaginativum et electivum est. Movens igitur caelum imaginativum
et electivum est.


以上の理由から、逍遙学派はいずれも、天空は自然によって動くのではな
いと述べている。その点で、彼らはストア派と一致している。ストア派は
天空が自然によって動くのではないと最初に述べた人々だ。

一方、エピクロス派は、象形と真空を運動の原理として掲げている一派
で、天空が自然によって動くと述べる唯一の人々である。その原理は原子
の回転にあるとされ、天空もそれらによって構成されているという。先に
述べたように、これは背理的である。

逍遙学派たろうとするアヴィセンナや、独学の探求者アル・ガザーリー、
さらにそれ以前のアル・ファラービー、ギリシア人ではアレクサンドロス
やポルピュリオスなどは、天空は霊魂によって動かされると述べ、その運
動は魂による進行性のもの、あるいは想像や選択など、進行性の運動に類
するものであるとされる。彼らの著書から、次の4つの理由がまとめられ
る。

その1つめは次のようなものだ。上に述べたように、自然によっては存在
しえない以上、AからB、BからC、CからD、Dから再びAというふうに定
まった動きをするのは、Bの位置、次いでCの位置、次いでDの位置、次
いでAの位置が個々に定まったものとして捉えられた場合のみである。位
置の違いを個々に、定まったものとして捉えることは、想像力や選択的意
志の働きである。したがって天空の動きは想像力および選択的意志に属す
ることになる。
# # #

ちょっと切り方が良くないですが、とりあえず、「天空は魂によって動
く」という説の最初の議論までを見てみました。ストア派とエピクロス派
に少しばかり触れていますね。

ストア派の思想は、キケロを介して中世に伝えられたとされています。エ
ピクロス派についてはルクレティウス経由でしょう。ジルソンの著書など
によると、実際、9世紀から12世紀ごろまで、各地の修道院の書庫には、
ときにキケロの著作やルクレティウスの『事物の本性について』などが備
わっていたといい、異教的思想に対する寛容さが見てとれたといいます。
とくにキケロなどはキリスト教との親和性もあり、ラテン世界では、いわ
ゆるキケロ主義とでも呼べるような思想的な脈動があったとも言われま
す。とはいえ、中世のコスモロジーなどへのストア派の具体的影響となる
とちょっと不明です(これは今後の課題としておきます)。

復習しておくと、ストア派本来のコスモロジーでは、コスモス全体を一つ
の身体(コルプス)と見て、その全体にロゴス的な火である気息(プネウ
マ)が広がっている、というのが基本的図式なのでした。この気息がスト
ア派で言う魂なのですね。それはまた、一切の根源ということで神と同一
視されたりもします。また、身体としてコスモスは、一種の共鳴の原理に
よって成り立つとされています。なかなかに巨視的なスタンスです。これ
に対してエピクロス派は微視的なアプローチをかけます。コスモスを構成
しているのは原子と、その原子が動く真空から成るとされ、運動こそが諸
物の原理なのだとされます。真空を認めるという点からして、すでにキリ
スト教の伝統とは折り合いが悪く、アルベルトゥスにあっても軽く斥けら
れています。

天空が魂によって動かされる、という説には、アラブ系の哲学者の名がず
らっと並んでいます。文中のアレクサンドロスはアフロディシアスのアレ
クサンドロスでしょうか。アレクサンドロスにはアリストテレスの天空論
についての注解があったとされ、一応アラビア語テキストが残っているよ
うです。これも追って取り上げたいと思います。ポルピュリオスの天空論
についても、個人的にちょっと追ってみたいと思っています。


*本マガジンは隔週の発行です。次号は6月9日の予定です。

------------------------------------------------------
(C) Medieviste.org(M.Shimazaki)
http://www.medieviste.org/
↑講読のご登録・解除はこちらから
------------------------------------------------------

投稿者 Masaki : 21:06

2007年05月16日

No. 103

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
silva speculationis       思索の森
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.103 2006/05/12


------文献探訪シリーズ-----------------------
「イサゴーゲー」の周辺(その10)

今回と次回は、下の「文献購読シリーズ」でも取り上げているアルベル
トゥス・マグヌスの「イサゴーゲー」注解をまとめてみたいと思います。
アルベルトゥスが活躍した13世紀半ばは、基本的にアリストテレス思想
が西欧世界に流入し、それに対して各人がなんらかの立場を取った時代で
す。アルベルトゥスは、どちらかというと逍遙学派よりは新プラトン主義
の流れのほうへの傾斜が強く感じられ、アリストテレス受容も、アヴェロ
エスではなくむしろアヴィセンナの考え方に拠っています。

「イサゴーゲー」の注解となっているのは、『ポルピュリオスの「五つの
普遍概念について」をめぐって』("Sper Porphyrium de V
Universalibus")という著書で、ケルン版のアルベルトゥス全集では1巻
目の冒頭を飾っています(Aschendorf, Monasterii Westfalorum,
2004)。テキストの成立年代はちょっとはっきりしないようですが、前
回の「文献購読シリーズ」で触れたように、アルベルトゥスが主だった注
解を記すのは50〜60歳代で、これも50歳代、遅くとも63歳ごろまでに
記されたものと考えられているようです。

アルベルトゥスの注解の特徴は、そのかなり自由な言い換えにあります。
この著書でも、ポルピュリオスが示した「類」「種」「差異」「固有」
「偶有」の5つの普遍概念をめぐって、かなり細かな議論が展開し、論考
としても長いものになっています。アルベルトゥスの議論の進め方は、こ
の時代の多くの神学者と同様、対になる両論(または複数の議論)を紹介
し、それらを自説で統合するという弁証法的なものです。大陸系の論文の
書き方に、今でも生きているメソッドですね。ここではさしあたり、普遍
概念の実在・非実在を論じた部分にのみ着目したいと思います。具体的に
は第一論考の第三章です。

「普遍概念は知性から切り離された形で自然の中に存在するか、それとも
純粋な知性の中にのみ存在するか」という問題に、アルベルトゥスはまず
後者を支持する立場を紹介します。誰のものというのではなく、ボエティ
ウス、アリストテレス、アヴィセンナ、アル・ガザーリーなどから適宜
拾っているようです。大略として以下のような議論が取り上げられていま
す。(1)自然の中で区別されるものは数として一であるのに、普遍概念は
一ではなく、したがって区別されない。(2)自然の中で区別されるもの
は知性の外に存在するが、(1)により普遍概念は知性の外に存在しえな
い。(3)自然の中で区別されるものは個別だが、普遍概念が個別だとす
るとその定義に矛盾する。(4)普遍概念と個別が存在として同じだとす
るとその定義に矛盾する。(5)普遍概念が知性の外に存在するとするな
ら、それには存在の起源があるかないかのいずれかだが、起源がないとす
ると永遠だということになり、存在の定義(事物は知性の光によって創造
される)に矛盾する。起源があるとすると、それはつまり現実態になった
ということだが、するとそれは現実態の定義(現実態は個別である)に矛
盾する。(6)人工物の形がほかの人工物と共通にならないように、事物
に共通するものとしての普遍概念は知性の中にしか存在しえない云々。

これらは主に定義矛盾を引き合いにして普遍概念の実在性を否定する立場
です。それに対して、今度は実在性を肯定する立場が紹介されます。こち
らもアリストテレスなどから断片的に拾っているようです。(1)「人
間」なる単一のもの(形相のこと)が知性の外に存在しなければ、人間は
存在しえない。(2)事物を存在せしめるものと認識させるものとは同一
であり、(1)により認識・認知は普遍概念によってなされることにな
る。知は事象をめぐっての作用である以上、普遍概念も事象ということに
なる。(3)存在は、能動者(agens:能動的知性のこと)から形相を通
じて事物にもたらされる。 能動者からもたらされるものはすべて自然の
中に存在する。普遍概念もまた能動者からもたらされる以上、自然の中に
存在する。(4)能動者からもたらされる「存在」は、あくまで単一のも
のとして(形相として)与えられる。したがってその形相のありようとは
普遍概念のありようとイコールである。(5)自然に存在するものでなけ
れば、自然における存在を与えられない。ゆえに形相は自然の中にあり、
知性の外に存在している。(6)光と色の関係と同様、知性もまた、作用
を受ける側の力能(virtus)に作用することで形相を与えるが、その力能
は自然において存在する。類や種といった普遍概念はそうした適応性とし
て自然の中に存在する。(7)普遍概念ないし形相は、事物の原因もしく
は原理であり、その当の事物に先行し、単純な形で存在する云々。

かなり大まかなまとめですが(苦笑)、いずれにしても、実在否定論が論
理学的な議論であるのに対し、実在擁護論は思弁的・形而上学的議論に
移ってしまっているのがわかります。後者では質料形相論を持ち出してく
るわけですが、議論の質、議論の運びがずいぶんと違いますね。アルベル
トゥスはもちろんこのことを十分意識していています。で、両論に対する
ジンテーゼとしてこの後、アルベルトゥス自身の立場が論じられるのです
が、先取りして言ってしまうと、つまり、そうした形而上学的な議論をふ
まえた上で、一種の認識論的な腑分けを行っていくことになります。これ
もちょっと箇条書きのようにまとめたいのですが、少し長くなってしまう
ので、具体的な中身は次回に持ち越すことにします。
(続く)


------古典語探訪:ギリシア語編----------------
「ハリポ」で復習、古典ギリシア語文法(その3)

ギリシア語のローマ表記ですが、これまでの独自表記を、Peruseusの
ワード検索(http://www.perseus.tufts.edu/cgi-bin/resolveform?
lang=greek
)で使われている表記に統一したいと思います。Perseusは
有名な古典語サイトです。ここのオンライン辞書などはなかなか便利なの
で、そこで使われているローマ字表記に合わせることにします。具体的に
は、長母音の表記を、_の代わりに^とし、またksをx、xをchに変えま
す。それから、表記していなかった下付きのイオタ(i)を、横に添える
ことにします(ちょうど大文字表記の場合のような感じです)。

さて、今回も続きを読んでいきましょう。3番目の文からです(原文はこ
ちら→http://www.medieviste.org/blog/archives/A_P_No.
3.html
)。

dioper nomizois an autous en pro^tois einai to^n me^
metechonto^n tou thaumasiou, o^s peri oudenos ta toiauta
poioumenous kai alazoneian kalountas.

dioperは「そんなわけで」という接続詞ですね。nomizoisはnomizo^
(〜と見なす)の希求法現在の2人称で、anとともに用いられて、想像・
予想などを表すのでした。ここは「あなたは思うだろう」という意味にな
ります。その目的語がautous「彼らを」で、補語が不定詩句の形で続い
ています。einaiが英語でいうbe動詞(eimi)「である」の不定詞で、en
pro^tosで「一番の中に」。どういう一番かというのが、その後のto^v以
下です。否定辞me、metecho^「関わる」の現在分詞。ここでは冠詞が
ついて名詞化しています。「関わる人々」でしょうか。metecho^の補語
として属格(tou thaumasiou「不思議なこと」)。これで、全体がつな
がって、「そんなわけで、あなたは彼らが不思議なことに関わらない第一
人者だと思うだろう(=そんなわけで、あなたは彼らが不思議なことに関
わることはまずないと思うだろう)」となります。

o^s以下はその理由を表す句になります。oudenosは英語ならnothing、
ここではperiに続いているので対格です。ta toiautaは「そんなことを」
(複数、対格)、poioumenosはpoieo^の現在分詞(中動態:再帰を表
します)で、「自分に行う」。分詞が対格になっているのは、前の文の
autous(彼ら)の同格扱いだからでしょう。さらにkalountas(kaleo^
の現在分詞、複数、対格)が続いて、alazoneia(馬鹿げた考え)がその
目的語になって対格になっています。全体として「なにしろ、彼らは何に
ついてもそんなことは行わなかったし、馬鹿げたことと見なしていたか
ら」となります。

o de Dousleios kurios e^n ergaste^riou tinos Grouniggos
kaloumenou ouper trupana kai teretra pantodapa poieitai.

この文の主語はo Dousleiosですね。deも前回出てきましたが、軽い順接
の接続詞で、訳出する必要はないかもしれません。kuriosは「主人」、
e^nはeimi(である)の未完了過去、3人称単数です。ergaste^rionは
「工場・企業」でそれが属格になっています。tinosは「とある」の意
味。ergaste^riouに合わせて属格、単数になっています。Grouniggosは
固有名詞(一応英語風にグルニングにしておきましょうか)で、
kaloumenou(kaleo^「呼ぶ」の受動態の現在分詞)の目的語になって
います。これで「グルニングスと呼ばれた」となるのですね。ouperは関
係副詞で、「〜の場所で」。ここではその工場のことを指しています。
trupavaはtrupanonの複数対格で、「回転錐」の意味、teretraは
teretronの複数対格で「錐」の意味です。pantodapaは形容詞で、「あ
らゆる種類の」。poieitaiはpoieo^「作る」の受動態3人称単数ですね。
これで、「(その会社では)ありとあらゆるドリル類が作られている」。
ここまでで「ダースレー氏は、実に様々なドリル類を作っている、グルニ
ングスなる一工場の社長だった」になります。

今回の箇所は、ギリシア語で多用される分詞の好例ですね。分詞も格変化
し、metechonto^nの場合のように名詞化したり、kaloumenouの場合
のように補語(目的語など)を取ったりします。あと、希求法 + anなど
も文法書で確認しておきたいところです。


------文献講読シリーズ-----------------------
アルベルトゥス・マグヌスの天空論・発出論を読む(その2)

前回から始まったアルベルトゥス・マグヌスの『原因論』注解の購読の続
きです。今読んでいるテキストの「天空は魂で動いているのか、それとも
自然によってか、知性によってか」という章の見出しは、現代の私たちに
とっては、ずいぶんと変な問いだなと思えますが、当時の神学世界にあっ
ては、これは真剣な議論の対象だったのですね。この章の見出しに即し
て、アルベルトゥスの考察も続いていくわけですが、まだまだアルベル
トゥス自身の見解にはいたりません。まずはそれが自然によって動くので
はないとした逍遙学派の議論が紹介されています。否定の理由として挙げ
られている五つのうち、前回は三つを見ました。今回は残り二つを見てい
きましょう。

# # #
Quarta ratio est, quod motus localis in his quae per naturam
moventur, non est nisi existentis in potentia ad formam
substantialem eo quod motus localis in talibus consequens est
naturam. Quod autem caelum in potentia sit ad esse, nullus
umquam dixit Peripateticorum.

Quinta ratio est, quod motus localis, qui per naturam est, nec
uniformis est nec regularis est. Uniformis quidem non est, quia
quo formae generantis est vicinior, eo est velocior. Propter quod
omnis motus naturalis in fine intenditur in velocitate. Regularis
autem non est, quia minus et magis habet de potentia secundum
continuum exitum de potentia ad actum. In fine enim minus habet
et in prinpicio plus de potentia et e contrario de actu in fine plus
et in principio minus. Et hoc continue est in ipso secundum totum
exitum de potentia ad actum. Nec uniformis igitur nec regularis
esse potest. Caeli autem motus et uniformis et regularis est. Caeli
igitur motus per naturam non est.

Si autem aliquis dicat, quod nec caeli motus uniformis est eo
quod dividitur in motum planes et in motum aplanes, ut dicit
Aristoteles in XI Primae philosophiae, patet statim, quod instantia
nulla est. Cum enim dicitur caeli motus uniformis et regularis, hoc
dicitur in omni uno mobili et uno motu. Motus autem planes et
aplanes nec secundum idem mobile nec secundum eundem
motum determinantur, quin potius hoc ipsum quod secundum
duos situs oppositos dividitur motus caeli, signum est, quod per
naturam non est, Nulla enim quae unius naturae sunt in genere,
oppositorum motuum sunt secundum situm, sicut patet in motibus
gravium et levium et omnium aliorum.


第四の理由はこうだ。自然によって動くものにおける場の運動は、実体的
な形相に向かう潜在態にのみ存在する。その形相ゆえに、結果として生じ
る場の運動は自然なものとなるのである。しかるに天空が存在に向かう潜
在態であるとは、逍遙学派のいかなる者も述べていない。

第五の理由はこうだ。自然によるところの場の運動は、均質でも一定でも
ない。均質でないのは、[その事物を]生み出す形相に近いほど運動が速い
からである。それゆえ、あらゆる自然の運動はつまるところ速さへと向
かっていく。一定でないのは、潜在態から現実態へと連続的にいたる度合
いに応じて、潜在態の大小が異なるからだ。潜在態は最後には小さく、最
初は大きい。逆に現実態は最後に大きく、最初は小さい。しかもそれは、
いずれも潜在態から現実態へといたる度合いに応じて連続している。以上
のことから、[その運動は]均質でも一定でもありえないのである。ところ
が天空の運動は均質で一定である。よって天空の運動は自然によるもので
はない。

仮に「天空の運動が均質でも一定でもない。それはアリストテレスが『第
一哲学』11巻で述べるように、惑星と恒星の運動に分かれるのだから」
と言う者があるとしても、その議論が成立しないことは直ちに明らかであ
る。天空の運動が均質で一定であるという場合、それはそれぞれの一つの
運動体、一つの運動においてそうだ、という意味である。ところが惑星と
恒星は、同じ運動体、同じ運度によって決定されてはいない。けれどもむ
しろここでは、天空の運動が二つの異なる位置にもとづいて区別されると
いうことが、自然によるものではないという徴候をおのずとなしているの
である。類として一つの自然に属するものはどれも、位置によって運動が
異なったりはしないからだ。軽いものや重いもの、その他あらゆるものの
運動について明らかであるように。
# # #

羅独対訳本の注によれば、3つめの段落に出てくるアリストテレスの『第
一哲学』11巻というのは、『形而上学』のことで、ここでの話は1.12 c.
8(1073 b 17-32)の部分です。アルベルトゥスは当時出ていたラテン
語訳で読んでいたので、こういう形で言及されているのですね。もとの
『形而上学』の該当箇所は、アリストテレスが惑星と恒星(アリストテレ
スでは太陽や月もこれに分類されるのですね)それぞれの軌道(層)の違
いについて説明している部分です。アルベルトゥスが紹介しているこの議
論では、天空が層をなしながらも一体であると考えているため、惑星と恒
星が別々の軌道で動いているというのは、すでにして超自然だというわけ
です。

逍遙学派が「天空の動きは自然によるものではない」とする上の五つの理
由からは、その逍遙学派(アラブ系のアリストテレス主義のことでしょ
う)の基本的立場が大まかながら見えてきます。つまりこんな感じでしょ
うか。事物はいずれも形相によって生み出され(第二の理由)、その形相
はつまるところ「一つ」なのであって、事物はどれほど多様であろうと、
その「一つ」の形相に向かっていく(第一の理由から)。運動もまたその
形相によって与えられ、それによって事物は動かされる(第三の理由)。
運動が向かうのも当然その形相であって(第四の理由)、その形相と合致
すれば運動はなくなるものの、地上世界では事物はそうなることができ
ず、不均質な運動を続けていくしかない(第五の理由)……。とまあ、こ
ういった自然の事物についての原理があって、天空の運動はそれにそぐわ
ないので自然の運動ではない、という話になっているわけです。

ではその逍遙学派は、天空は何によって動くと考えるのでしょうか。魂に
よってでしょうか?この話が、アルベルトゥスが次に紹介する議論になり
ます。それは次回見ていきたいと思います。お楽しみに。


*本マガジンは隔週の発行です。次号は5月26日の予定です。

------------------------------------------------------
(C) Medieviste.org(M.Shimazaki)
http://www.medieviste.org/
↑講読のご登録・解除はこちらから
------------------------------------------------------

投稿者 Masaki : 23:39

2007年05月02日

No. 102

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
silva speculationis       思索の森
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.102 2006/04/28

------文献探訪シリーズ-----------------------
「イサゴーゲー」の周辺(その9)

今回はアヴェロエスによる『イサゴーゲー』注解を取り上げます。よく知られてい
るように、アヴェロエス(イブン・ルシュド、1126 - 1198)はイベリア半島のアラ
ブ思想圏を代表する思想家で、特にそのアリストテレス注解書の数々は、中世盛
期に大きな影響を及ぼしたのでした。注解にはアリストテレス以外のものもわず
かながらあり、その一つがこのポルピュリオスの著作の注解です。とはいえ、全
体的に、『イサゴーゲー』は論理学の入門として失敗しているというトーンで書か
れています。ここでは米国中世アカデミー&カリフォルニア大学出版局から1969
年に刊行された英訳本を参照しているのですが、その序文で、ハーバート・デー
ビッドソンがそのことを指摘しています。

前回ちらっと触れたように、中身はというと、普遍概念の実体性を否定するような
内容になっています。種を包摂するもの、という類概念の定義について、アヴェロ
エスはポルピュリオスに見られる相対的なスタンス(種か類かは、包摂関係に依
存する相対的なものなのでした)を批判します。述語関係による定義は、「類」」
と中間的な種の両方にまたがってしまうので(相対的なスタンスならそれで問題
はないのですが)、真の定義にはならないとはねつけます。では類の真の定義と
は何かというと、「種を含み、その上位に格付けされる普遍概念」だとアヴェロエ
スは言います。こうして、中間的な種とされていたものは「中間的普遍概念」と定
義し直されます。この読み替えは決定的です。というのも、この操作によって、
類・種とされていたものは、すべてが普遍概念に括られてしまうからです。同じ普
遍概念という括りなら、相対論もちゃんと成立するというわけですね。

アヴェロエスは、すべての類の上位に立つ類はないとして、ポルピュリオスの最
上位概念を否定し、アリストテレスの10の範疇を引き合いに出します。また、類
や種ではあくまで「包括=結合」の度合いで分けられるのに対し、「個」は(個人が
それぞれ違うように)基本的にたがいに分離するものだということを指摘します。
類や種においてそうした結合の操作が可能なのは、それらがあくまで概念的な
ものだからだ、という含みがあるわけですね。類や種が普遍概念に括られるのに
対して、個だけは括られない異質なものだというわけでしょう。また、ポルピュリ
オスの言う述語関係という観点から見ても、類や種といったものと、個との間には
大きな違いがあることを、アリストテレスに準拠して述べています。さらに、『イサ
ゴーゲー』において類を分けるものとされた「差異」についても、類が質料に、差
異が形相に比されるとしたポルピュリオスの一文を、アヴェロエスは、質料と形相
によって現実のモノが構成されるように、質料と差異によって「心的な事物」が構
成されるのだと読み解いています。ここに至って、類は完全に概念の側に位置づ
けられています。種もまた同様の扱いです。

アヴェロエスは結論部分で、ポルピュリオスが『イサゴーゲー』で行っているの
は、範疇の定義ではなくその説明なのであって、その意味において同書は論理
学そのものの一部には含まれない、と述べています。むしろそれは『分析学』か
『トピカ』に位置づけられるものだ、というわけです。余談ながらアヴェロエスは
リストテレスの『トピカ』への小注解
で、普遍概念の範疇として(つまり述語となり
うるものの範疇ですが)、普遍概念はポルピュリオスが述べる5つのほかに、「定
義」「描写」「定義でも描写でもない言明」を加えて8つとしています。そこでもま
た、普遍概念があくまで言語操作(同書の場合は弁証法の技法)のためのもの
であることが指摘されています。このアヴェロエスの立場(あるいはアリストテレス
的議論を継承する立場)は、中世盛期の普遍論争にとって大きな試金石となっ
ていくのでした。
(続く)

------古典語探訪:ギリシア語編-------------
「ハリポ」で復習、古典ギリシア語文法(その2)

さて、いよいよ本文です。今回のギリシア語表記はこちらをどうぞ
(→href="http://www.medieviste.org/blog/archives/H_P_No.
2.html
)。まず書き出しの一文です。これ、今や世界中で子どもたちに最も読ま
れている一文なのだそうですね。ま、そりゃそうでしょう。あれだけのベストセ
ラーですし、最初の一文も読まない子はそんなにはいないと思いますからね
(笑)。ま、それはともかくギリシア語訳です。

Doursleios kai he_ gune_ evo_koun te_ tetarte_ oikia te_ te_s to_n
mursino_n odou・

Doursleiosは英語のDursleyです。Dourseleios kai he_ gune_で、「ダース
レーとその妻」になります。evo_kounは動詞evoikeo_(住む)の未完了過去・
三人称複数となります。この動詞は補語として与格を取ります。それで、
tetrate_ oikia(4番目の家)が与格になっています。これを同格的に定冠詞で
受けて(2つめのte_)、mursion_n odos(マートル通り)の属格を続けてさらに
修飾句としています。これで、「ダースレー夫妻は、マートル通り4番の家に住ん
でいた」となります。マートルというのは、「ギンバイカ」という植物です。

esemnunonto de peri eautous o_s ouden diapherousi to_n allo_n
anthro_pon, toutou d'eneka xarin polle_n e_desan.

esemunuontoは動詞semnuno_(自慢する)の未完了過去。periは意味に
よって次にくる格が違ったりしますが、ここでは対格を取って「〜に関して」とな
り、eauto_n(彼ら自身)は対格になっています。o_sは「〜として」。英語のasの
ような感じですね。oudenはnot at allに相当します。diapherousiは
diaphero_で「異なる」。属格を取って、「〜から異なる」となります。ここでは
alloi anthropoi(他の人々)が属格になっています。toutouは指示代名詞
outos(これ)の属格ですが、eneka(〜なので)に続くからでしょう。deは軽い順
接などを現す接続詞で、「そしてまた」。e_desanはoidaの未完了過去、三人称
複数、その補語はxarin polle_nで「多くの感謝を」。これで全体としては、「彼ら
は自分たちのことを、他人と変わるところがないとして誇らしく思っていた。そし
てそのことを大いに感謝していた」となります。

今回のところの復習のポイントは、やはり未完了過去でしょうか。未完了過去
は、現在をそのまま過去に移したもの、とされます。叙述ではとくに重要な時制に
なるので、ここでは紙面の都合により割愛しますが、活用や用法をちゃんと押さ
えなくてならないところですね。


------文献講読シリーズ-----------------------
アルベルトゥス・マグヌスの天空論・発出論を読む(その1)

今回から新たなテキストを読んでいきたいと思います。読むのはアルベルトゥス・
マグヌスの『原因ならびに第一原因からの世界の発出についての書』(Liber de
causis et processu universitatis a prima causa) の第一巻第四論考の7
章と8章を考えています。今回の目標は、スコラ的な議論の仕方に親しむこと
と、その時代の(広い意味での)コスモロジー的な視座を捉えること、でしょう
か。具体的なテキストとしては、ドイツのMeinerから刊行された羅独対訳本
"Buch uber die Ursachen und den Hervorgang von allem aus der
ersten Ursache", 2006
)をベースとします。

アルベルトゥス・マグヌス(1200〜1280)はドミニコ会士で、パリで神学の学位
を取り、その後ケルンで教鞭を執りますが、教え子の一人にはトマス・アクィナス
もいました。ですが長い間、アルベルトゥスは「神学を貶める哲学者」の扱いを受
け、列聖されたのは1931年、ピウス11世によってでした。それをきっかけに評
価は一変し、その博学ぶりもあって(万有博士などとも称されます)、当時の自然
学の一種の擁護者とも見なされてきました。アリストテレスに対するスタンスは
微妙なところもありますが、いずれにしても当時の先端的な編集工学的知性と
いう意味でも、個人的にとても面白い存在だと思っています。

さしあたってこのテキストですが、実はこれ、以前このコーナーで拾い読みをした
『原因論』の注解に相当します。注解とはいっても、アルベルトゥスの場合は一見
かなり自由な言い換え・敷衍を施している印象です。アルベルトゥスが各種の注
解(とくにアリストテレスの著作についてですが)を記したのは50〜60歳代とさ
れ、この注解も1264年から67年ごろに著されたもののようです。この第一巻は
4つの論考からなり、それぞれ(1)古代の考え方、(2)第一者の認識、(3)自由
意志と第一者の全能性、(4)第一原因からの発出について考察しています。ここ
では最後の論考の末尾の2章を見ていきたいと思いますが、追ってそれ以前の
章についても言及していきたいと思っています。それでは(なんだかいきなりで恐
縮ですが)、さっそく7章の冒頭を見ていくことにします。

# # #
"De quaestione, utrum caelum movetur ab anima vel a natura vel ab
intelligentia"

Antequam ordo fluentium a primo determinatur, inquirere oportet,
utrum caelum movetur vel a natura vel ab anima vel ab intelligentia
vel ab omonibus his vel a duobus primis ex tribus inductis/

Quod autem non movetur a natura solum, omnes dicebant
Peripatetici quinque rationibus.

Quarum una est, quod natura corporis forma est et non est nisi ad
unum, in quod cum pervenerit, quiescit in illo et non movet ab ipso.
Motus autem caeli ad nullum ubi determinatum est, nisi sit etiam ab
ipso. Motus igitur caeli a natura non est.

Secunda est, quod motus naturalis localis a generante est, ut
probatum est in “VIII Physicorum”. Caelum autem secundum se
totum ingenerabile est. Motus ergo caeli a natura non est.

Tertia est, quia nihil motum naturaliter in loco suo movetur, sed extra
locum existens. Et quantum accipit de forma a generante, tantum
accipit de motu ad locum. Et cum perfecte acceperit formam, tunc
est in loco suo et quiescit in ipso aut violenter prohibetur, ne
moveatur ad ipsum, et tunc movetur ab eo quod removet prohibens.
Talium autem nihil caelo convenire potest. Caelo igitur non convenit
a natura moveri.

天空は魂によって動かされているか、あるいは自然、または知性によって動かさ
れているかという問題について

第一原因からの発出の秩序を定義する前に、天空は自然によって動かされるの
か、それとも魂によってか、あるいは知性によってか、それともこれらのすべて、
あるいは最初の二つは三番目めから導かれるのかどうか、について問う必要が
ある。

しかしながら、逍遙学派のいずれの者も、五つの理由から、天空が自然のみに
よって動くのではないと述べている。

その第一の理由はこうだ。自然とは身体の形相であり、「一」に向かう以外にな
い。それが「一」に達する際には、その場に静止し、おのずと動くことはない。しか
しながら、天空の動きは、定められたいかなるものにも向かっておらず、ただお
のずと動いていく。したがって、天空の動きは自然によるものではない。

第二の理由はこうだ。『自然学−−第8巻』で論じられているように、自然な場に
おける運動は、生み出すものに由来する。しかるに天空はもとより生み出されえ
ないものである。したがって天空の動きは自然によるものではない。

第三の理由はこうだ。自然にあっては、いかなる運動もおのれの場においてはな
されず、場の外部に存在する。生み出すものに由来する形相からどれだけを受
け取るのかに応じて、場に対する運動から受け取るものも決まる。形相を十全に
受け取るのであれば、おのれの場にとどまり、みずから静止する。あるいはまた、
みずから動くことを強制的に禁じられ、その禁を解くものによって動かされる。し
かるに、このような説明は天空にはまったくそぐわない。したがって天空が自然
によって動くというのは妥当ではない。
# # #

5つの理由が列挙されていくのですが、まずは3つめまでを見てみました。こん
な調子で、それぞれの論点が列挙され、対になる反論が示され、それらへのコ
メントという形で本人の論が展開するというのが、この時代の議論の基本です
ね。うっかり論旨を掴み損ねると、自説なのか他者の説の紹介なのかが見えな
くなってしまうようなこともありますので、注意が必要だったりします。

二番目の理由のところで出てくる『自然学』の8巻は、まさに運動について論じた
部分です。三番目の理由もやはり同じ8巻を参照しています。これに対応する箇
所として考えられるのは、8巻の225256a、1から2行目でしょう。この直前箇
所に、何ものもみずから動くのではなく、ほかから運動を受け取るのだ、というこ
とが記され、当該箇所では、それは生み出すもの、もしくは(運動を)阻む要因を
取り除くものによる、ということが述べられています。アルベルトゥスは上のテキス
トの別の箇所(第一論考、第2章)でも、「motus est a generante vel ab eo
qui removet prohibens」という表現で同じ箇所に言及しています(当時のラテ
ン語訳からの引用のようです)。

とまあ、こんな調子でゆっくりと読んでいくことにしたいと思います。相変わらず、
訳は大まかなものとご承知おきください。次回は残りの二つの理由を見ていきま
しょう。


*本マガジンは隔週の発行です。次号は5月12日の予定です。

------------------------------------------------------
(C) Medieviste.org(M.Shimazaki)
http://www.medieviste.org/
↑講読のご登録・解除はこちらから
------------------------------------------------------

投稿者 Masaki : 22:59