2008年07月05日

トルコの今

藤原書店の別冊『環』14号「トルコとは何か」をちらちらと。今に始まったことではないけれど、西欧世界の「臨界」の意味づけにおいて、トルコやそれ以前のオスマン帝国などは重要な存在。そのわりにちゃんと知らないなあと思っていた矢先だったので、これを機にと購入してみた。作家のオルハン・パムクが5月に来日ということだったので、それに合わせた特集だったようだが、パムクについての特集部分は後半のみで、前半はトルコの近代史や文化誌を中心にした多面的な特集。とりわけ見開き2ページでちょこちょこと入るコラムが個人的には面白い。チューリップがトルコで重用されたというのはちょっと意外な感じだったし、トルコ料理の展開とか、トルコの音楽とか、いろいろと興味深いことしきり。「飛んでイスタンブール」がらみで庄野真代も一文を寄せている(!)。

投稿者 Masaki : 22:54

2007年11月14日

エピステーメー

久々に雑誌『現代思想』10月号を読む。遅ればせの10月号で、特集は「温暖化の事実--環境問題の発見」だ。この雑誌が思想家別の特集を組まなくなって久しい気がするけれど、逆にこの特集などを見ると、むしろ地に足のついた思想を展開しようというふうになってきているのかも、と思ったりもする。全体的な基調は、冒頭の養老孟司氏の談話「環境について本当に考えるべきこと」と、討議「冷静に温暖化を考える」と題された討議に集約されている感じ。本当に重要になってくるのは巨視的な見方と微視的な見方の使い分けだ、ということ。報道などを通じてしか接することのできない括弧付きの「環境問題」「温暖化」においては、まずそのイデオロギー的部分、歪曲的部分をなんとか認識しなければならないわけだけれども、専門家ではない一般人にとって、これはかなりの自主的なインセンティブを要することだ。そのためには、「当事者・部外者」のいずれでもある私たちは、さしあたり「環境問題」のそもそもの経緯や構造、さらには議論の成り立ちなどを捉えるというアプローチを取らざるを得ない。それは社会学的な問題、ひいては哲学的なエピステーメー(科学認識論)の問題にもなる。収録論文の多くは、ゴアの映画が提示する話やアメリカの経済主義への批判(長原豊「好都合な真実」)、関係する国際機関の議論のずれ(池田寛二「<気候格差>の真実」、宗像慎太郎「地球環境問題と科学的不確実性」など)などを強調している。養老氏の「環境問題はアメリカ問題だ」というような発言を改めて考えさせる。一方の微視的な視点が重要だというのは、これはむしろ主に専門家らに要求されることで、討論での「自然変動においては平均値には出ない要素が、ローカルかつ短時間の計測では非常に重要な意味を持ちますから」(伊藤公紀氏)という発言にあるように、細やかな基礎作業が必ずしもきっちり行われていないという問題。

前のアーティクルとも関連するけれど、この巨視的・微視的の連動というか、両方の架橋というかは、とても難しい部分であるように思う。おそらくはどの分野でも必要とされる「両輪」なのだろうけれど、そのあたりがうまく連結されてこないと、たとえば中世思想でいうなら「全体像」のようなものがうまく見えてこないし、環境といった進行形の切実な問題では「批判」がうまく機能していかない(当たり前といえば当たり前のことだけれど)。そのあたり、「部外者」と「当事者」の間を揺れる一般の個人がどう意識的に取り組めるのかも、同じく難しいところではある。

投稿者 Masaki : 23:16

2007年09月11日

第4回十字軍と現代

9.11の季節がまためぐってきた。アメリカを中心とする自由世界が大きくコースを逸れた転換点として記憶されるべきあのテロだけれど、いまから振り返っても、その後の展開はまさに驚くほどの急展開だったように思う……。その余波はまだまだ続いて止まない(日本でも特措法をどうするかという話が再び大きく取り上げられているが)。

歴史というか、その記述の大きな部分を占める戦は、為政者たちの様々な思惑で当初の目的とは全然異なる方向へと逸脱していくことがある……というか、そういう逸脱はむしろ折り込み済みで、下手をするとやはり戦そのもの、暴力そのものに内在する無軌道性のなせる業なのかもしれない、というようなことを思う。いい例がこの9.11以降の「対テロ戦争」だし、別の例がたとえば第4回十字軍などだ。夏休み読書の一環として読んでいたジョナサン・フィリップス『第四の十字軍--コンスタンティノポリス略奪の真実』(野中邦子ほか訳、中央公論新社)は、聖地を目指して組織されたはずの4回目の十字軍が、いかに為政者たちの思惑に引きずられ、また数々のボタンの掛け違えをへて、こともあろうに同じキリスト教徒の町コンスタンティノポリスを攻撃して終結してしまうかを、実に詳細に描いた読み応え十分の歴史ルポ。著者はロンドン大学で中世史の教鞭を執る上級講師だそうで、一方でメディアにも露出している人気の若手歴史家とか。この邦訳は中公インサイド・ヒストリーズという翻訳シリーズの一つということだ。それにしてもこの第4回十字軍の逸脱、そもそもは、十字軍側が地中海を渡るための援助をヴェネチアに求めた際、その使節たちが軍の総勢数の試算を完全に誤り、かなりのざる勘定で契約を結んでしまうのが発端。十分な数が集まらなくては、ヴェネチア側に対する借金を負うことになってしまう。で、実際にそういう事態になり、すると今度は商業拠点の確保を図りたいヴェネチア側が、契約を盾にとって、債務返済の手助けと称し、ダルマティア地方ザラの攻略を持ちかける。さらに、ビザンティンを追われた皇帝の息子で、帝位継承権を主張するアレクシオス皇子なる人物がからみ、事態はさらに思わぬ方向へと横滑りしていく……。金銭、商業、権利、覇権と、絡んでくる政治的要素は今も昔も変わらない。逸脱をとめる機会はどこかになかったのか、と問うてみると、それはそのまま現代世界の状況にも重なってくる。事態が大きく展開してからは様々な駆け引きでがんじがらめになって身動きが取れなくなる。歯止めは後にしたがって難しくなっていく……。で、そうした教訓がいくらあっても活かされないところに、なにやらもっと不明瞭で陰湿な、人間の実存に関わる「原動力」が感じられたりもするわけだが……。

同書の表紙を飾るドラクロワの『十字軍のコンスタンティノポリスへの入城』を。

delacroix1.jpg

投稿者 Masaki : 23:01

2007年06月09日

環境問題への別様のアプローチは?

ハイリゲンダムでのG8サミット。今後43年かけて温暖化ガス排出を半減するという、どこか現実的に思えないような声明は、ドイツのメルケルが言うような成功とも取れないし、一方でグリーンピースのいう失敗とも一概に言えないように思え、なんだかいかにもどっちつかずの印象を覚える……(エコロジー系の活動家の主張がいつもどこかしら論点がズレている感じがすることと合わせて、なにやらとても違和感を感じてしまう)。少し前に、フランスの中世史家ロベール・ドロールと、スイスの近現代史家ワルテールの共著『環境の歴史』(桃木暁子ほか訳、みすず書房)に眼を通してみた。この本、要するに古代から中世・近世・近代と、西欧の歴史が環境への適応の歴史だったということを具体的な事例を挙げながらテーマ別に辿っていくというもの。なるほど、原因はともかく、ある程度周期的な温暖化・寒冷化の繰り返しは実際にあったようで、それは時代ごとの人間の生活の大きな枠組みをなしていたこともわかる。環境問題はずっと、つねにつきまとってきたというわけなのだけれど、とはいえ、現代的な加速化する環境破壊を前にしては、歴史家が示唆できることはどうしても限られてしまう。多くの場合、歴史家は歴史を連続性の相のもとに見ようとするから。で、そこでまさに発想の転換というか、問いの読み替えが必要とされるのかもしれないなあ、と。今の環境問題が、古来の適応問題と異なる一番の点は何だろう、と考えていくと、それはまずもって破壊の加速度だということになりそうだ。すると今度は加速度、あるいは速度と適応の問題が浮上する。

とすると、ここでヴィリリオの問題圏に行き着く。少し前に出た『民衆防衛とエコロジー闘争』(河村一郎ほか訳、月曜社)は、当然いわゆる「エコロジー本」ではないのだけれど(タイトルとはうらはらに)、「速度」という形で権力側の支配が細部にまで及ぶ現状(78年のテキストだが)、民衆の側からの防衛を賞揚するというのが趣旨。なるほど、エコロジー闘争として括られる戦いが、実は権力側の支配への抵抗に行き着くというのは慧眼だ。支配する側は「エコロジカルな破局」の恐怖を市民に植え付け、コントロールしようとし、入植者よろしく、時間や土地を簒奪していくのだという。加速とはまさにそういうことだ。G8の最中、グリーンピースのゴムボートを警備艇が追い抜いて蹴散らしていく映像が流れたが、あれなどはまさにヴィリリオの論考の戯画といえそうだ。そういわれてみれば、エコロジー系の先鋭的な活動団体がどこか違和感を覚えさせるということの正体も、彼らの真の敵が政治権力(広義の)にあるというのに、多くの場合そのことを環境論的なドグマにすり替えてしまうからなのかもしれない、と思えたりもする。また、G8の排出量半減の声明についての違和感も、環境そのものの保全というよりも、市民のよりいっそうの統制を強める意思表明のように聞こえてしまう、ということなのかもしれない……。うーん、政治闘争の側面と、環境の変化(それは自然的・人為的な両方の環境を含めてだが)への適応問題の側面とは、もちろん複雑に絡み合っているのだけれど、そのあたりを読み分ける一種のリテラシーが必要になってきそうな気もする。そのためには案外、これまたエコロジーとは一見無縁のような「恐怖と統治」の精神史に今一度立ち返ってみる必要もあるかもしれないのでは、と。そんな悠長なことは言っていられない、なんていう向きもあるかもしれないけれど、そういう長大な迂回は決して無駄ではないはず。それをいうならG8だって、43年後の話をしているわけだし。

投稿者 Masaki : 22:06