2008年10月18日

洞窟のアルケオロジー

これは音楽の関連書というべきか……分類に迷う。土取利行『壁画洞窟の音』(青土社、2008)。旧石器時代の音楽の原風景を求めて、南仏のレ・トロワ・フレール洞窟に赴き、そこに描かれた楽器とおぼしき壁画を目にし、さらにはクーニャック洞窟内での演奏を実現させた著者の、その体験記を中心に、楽器の起源や芸術の考古学に関する知見をまとめたエッセイなどを収録した一冊。なかなか刺激に満ちている。洞窟の壁画芸術をめぐっては以前、港千尋『洞窟へ』(せりか書房、2001)という名著があったけれども、今回のものは音響や楽器に着目した点が斬新。考察の深さという面ではちょっと物足りない感じもあるけれど(諸説紹介的なところに止まっているかなと)、それにしても着眼点と実体験に基づく報告部分に見るべきところが多い気がする。うん、このあたり、パフォーマーならではの記述なのだろうなあ、と。同書の刊行と同時くらいに、そのクーニャック洞窟での演奏CDが出ているということなので、そちらもぜひ聴いてみたいところ。

投稿者 Masaki : 23:24

2008年05月03日

今年もまた「熱狂の日」

例年通り、今年もピンポイント的に「La Folle Journée au Japon」へ。あいにくの雨だったけれど、相変わらず会場はそこそこ盛況。けれども個人的には、なんだか変わり映えしない感じになってきた。4回目だけあって、少しこの音楽祭のフォーマットに飽きてきたかなあ。会場のビジュアルなんかもほとんど同じだし。

今年はシューベルトなのだけれど、ピリオド楽器演奏でもないかぎりシューベルトは普段聴かないので、逆にこのときとばかりにミサ曲を中心にハシゴする。まずはおなじみミシェル・コルボ指揮で、シンフォニア・ヴァルソヴォア+ローザンヌ声楽アンサンブルによる「スターバト・マーテル」。これは初めて。ドイツ語でのスターバト・マーテルだというのが個人的には珍しい。ソロ(ソプラノは日本の人)がどこかシューベルトのリートっぽいのに個人的にはウケるも、5曲目の合唱とホルンの奏でる天上的な音に魅入られる(笑)。ついでダニエル・ロイス指揮、ヴュルテンベルク室内管弦楽団+カペラ・アムステルダムによる「ミサ曲第5番変イ長調」。キリエとグロリアは度迫力。クレド以降は妙におとなしい……って曲想がそうなのだから仕方ないような気もする。その後、オーヴェルニュ室内管弦楽団(アリ・ヴァン・ベーク指揮、ヴィオラのソロがジェラール・コセ)のシューベルト(ドイツ風舞曲、アルペッジョーネ・ソナタ)&ロッシーニ(弦楽のためのソナタ5番)で少々休眠し(笑)、それからメインイベントこと、再びコルボ軍団の「ミサ曲第6番変ホ長調」。うわー、これはまたしても文句なく名演でしょう!さすがはコルボ、最初から最後まで聴かせどころ満載で大迫力。緩急の振り具合など、もう最高。最後のアニュス・デイまですべてがドラマチック。シューベルト最晩年の作だけれど、これなどはまさにスタイル破壊的という意味で、サイードの言う「晩年性」の最たるものか、と。

投稿者 Masaki : 23:17

2008年04月16日

[古楽]モーツァルトのパロディ・ミサ

このところ聴いている、ちょっとご機嫌な面白い盤。『モーツァルト--「コジ・ファン・トッテ」ミサ』(Oehms、OC916)。表題のものは盤の前半で、「コジ・ファン・トッテ」からの曲をベースに逸名作者がアレンジし直したミサ曲。いわゆる「パロディ・ミサ」というやつだ。シュヴァーベン(ドイツ南西部)のニコラウス・ベッチャーなる大修道院長(ハイドンゆかりの修道院とか)が所有していた写本からのものなのだそうで。一部はその編曲者のオリジナルになっているようなのだけれど、とにかく面白い。モーツァルトの軽快な音の運びに、典礼の歌詞が載ることで、一種独特の華やいだミサ曲ができあがっている。オフェルトリウムはまた別の19世紀のアレンジで、「皇帝ティトの慈悲」からのものを組み合わせている。18世紀以降、パロディ・ミサはかなり稀になるというのだけれど、モーツァルトに関しては「ドン・ジョヴァンニ」ミサとか「魔笛」ミサもあるのだそうで、ちょっと聴いてみたいかも(笑)。CDの後半はおなじみ交響曲第41番ハ長調「ジュピター」。ピリオド楽器による演奏で、それでいて少し昔風の落ち着いた感じの演奏。ドイツっぽい?演奏は「ジャーマン・モーツァルト・オーケストラ」という2006年結成のオケ。指揮のフランツ・ラウムという人はトン・コープマンの弟子筋なのだそうで。

モーツァルトついでだけれど、最近、水林章『モーツァルト<フィガロの結婚>読解--暗闇のなかの共和国』(みすず書房、2007)を読了。いや〜これ、著者の<フィガロ>への思い入れもさることながら、堅実でミニマルなテキスト読みが実に鋭くて、なにかこの、テキスト分析の模範を見る思いがする。普通の視聴者なら脳裏をさっとよぎっては流れ去ってしまう「意味のかけら」を、微細な読解によって紡いでいく。メソッド的にはロラン・バルトなどを彷彿とさせるけれど、こちらはさらに当時の社会史などをも参照し、なによりもスコアとダ・ポンテの台本と、さらにはボーマルシェの原作まで参照して、その時代状況の反照を浮かび上がらせるという離れ業だ。

投稿者 Masaki : 22:22

2007年12月23日

[古楽にあらず]グールド(とサイード)

何やら今年はグールドの没後25年ということで、いろいろ復刻版のラッシュになっていた。白眉はやはり、80枚組とかいう一大セット。でもまあ、個人的にそこまでは要らないなあと思っていたのだけれど、せっかくなのでどれか買っておこうと思い、バッハ以外も入っているというので、作家の平野啓一郎編纂の一枚を購入してみた。『Golden Gould 〜平野啓一郎と辿るグレン・グールドの軌跡』というのがそれ。一枚目は何のことはない、55年の「ゴルトベルク変奏曲」全曲と、フーガ、パルティータ、トッカータときて、「平均律クラヴィーア曲集」から数曲を収めたバッハ特集。「ゴルトベルク」も久々に聴くと、また違った面白味が感じられていいのだけれど、やはりとても楽しいのは二枚目。モーツァルト(ピアノソナタ第8番イ短調)、ベートーヴェン(ピアノソナタ第32番ハ短調)、メンデルスゾーン、ブラームス、シュトラウスときて、最後にはスクリャービン(ピアノソナタ第5番嬰ヘ長調)、アルバン・ベルク(ピアノソナタ作品1)。とくにスクリャービンとベルクは個人的にもとても新鮮。バッハもいいけれど、これらにおける情感の盛り上げ具合がとりわけ面白い。

最近読んだグールドへのオマージュとしてなかなか面白かったのが、サイードの『晩年のスタイル』(大橋洋一訳、岩波書店)に収録されている「知識人としてのヴィルトゥオーソ」。サイードの事実上の遺作となるこの本は、基本的には、「有終の美」のようなクリシェに回収されないような、諸芸術家の一種価値転覆的なモーメントから、「晩年性=遅延性」(主体を超えて生き延びること)がどう織りなされていくのかを考察したエッセイの数々だ。で、いきおいそれは、サイードが得意としていた音楽論となっていく。扱う主題も、ベートーヴェンの晩年に惹かれるアドルノだったり、アドルノとグールドのシュトラウスをめぐる正反対の解釈だったり、モーツァルトの「コシ・ファン・トッテ」だったりする。さらにジャン・ジュネやヴィスコンティなどをめぐり、それからグールドにいたるわけだけれど、サイードは、グールドのバッハ演奏と、時代の潮流に逆らったバッハ(ギャラント様式の拒否)像を示したアドルノとを重ね合わせたりし、バッハの創造性とグールドの創造性との照応関係について述べたりしている。ま、そういう話はこれまでにもあったし、さほど目新しい視点でもないといわれればそれまでだけれど、サイードのこの文章は何かこう、ぜひともグールドについて書き留めたいと言わんばかりの芸術的な愛情を感じさせ、そのあたりに、サイード自身の「晩年性」も宿っているのかもなあ、なんてことを思わせたりもする。

投稿者 Masaki : 20:48