スコトゥスの言語哲学

メルマガの方でも取り上げた、ケンブリッジ・コンパニオンシリーズの一冊、『ドゥンス・スコトゥス』(“The Cambridge Companion to Duns Scotus”, ed. Thomas Williams, Cambridge Univ. Press, 2002)。スコトゥス思想のテーマ別に解説論文が12本収録され、このシリーズならではだけれど、その立体的な輪郭が浮かび上がる。そのうちの1本、「ドゥンス・スコトゥスの言語哲学」(ドミニク・ペルラー)はメルマガの方でも触れたけれど、これが全般的になかなか面白いので、以下に前半部分の要点をまとめておこう(メルマガの補遺ということで)。

まず、当時は語の意味作用に関するモデルが大きく二つあったという。語が指すのは指示物そのものだという直接モデルと、語が指すのは精神の中の知的スペキエスだという間接モデル。スコトゥスは後者に重きを置きつつ、間接モデルの問題点を批判的に乗り越えようとする。その問題点というのは、語が対応するのが知的スペキエスだとすると、たとえば二人の話者が言葉を交わす際、それぞれが別個のスペキエスを指すことになってしまい、共通理解に至らないという帰結になってしまうということ。スコトゥスはこの問題に、スペキエスを三つの側面から考えることで対応する。つまり質料的な側面、表象的な側面、精神外の個物的側面の三つ。

とはいうものの、スコトゥスは純粋な間接モデルの信奉者というわけでもなく、語が示しているもののうち、その表象的な側面の内容は、厳密には外的世界の事物の「本性」だとしている。たとえば木の知的スペキエスをもつ場合、その表象的な面での内容物は、外部世界の木がもつまさにその本性に他ならないという。内部世界と外部世界に二つの本性があるというのではなく、同じ一つの本性が二様の存在様式をもっているということらしい。

この考え方の背景には、事物の本性そのものは、個物にあろうが知的スペキエスにあろうが関係ないという形而上学的な思想があるらしいが、それはともかく、ここでもう一つ問題が出てくる。単称名辞(固有名詞などですね)の場合には、そういう共通の本性を表すのではないように思われるという点だ。これについてスコトゥスは、本性にはもとより多くの個物の属性となりうるものと、単称に個別化されたものとを区別する。スコトゥスの戦略の一つは、こうした分割操作にあるように思える。

それと並行する形で、抽象語の問題も出てくる。抽象語には、「人間」のような本質を表す名辞と、「白さ」のような偶有を表す名辞があるわけだけれど、13世紀後半に多くの論者がこのうちの偶有を表す名辞に関心を向けたという。それらが具体語とどう関係するのか、また、それら抽象語が述語をなした場合にはどう理解すればよいのかといった問題が提示されていたというわけだ。スコトゥスは、たとえば「白さ」は個別の主体への内在を考慮しない場合の本性を表し、「白い」は主体になにがしかの質を埋め込む場合のその本性を表す、と考えているらしい。したがって文(命題)においてそれらは互換できないことも説明される(「彼は白い」とは言えても、「彼は白さだ」とは言えない云々)。とにかく重要なポイントは、いずれにしても語が意味しているのは「本性」であり、抽象的・具体的な語の違いが、どういう様態での本性を表しているのかに対応するということのようだ。