プロクロスの『ティマイオス注解』をいったん脇において、このところ『パルメニデス注解』を眺めている。こちらは怪しい出版物ではなく(笑)、Oxford Classical Texts版(Procli in Platonis Parmenidem Commentaria”, ed. Carlos Steel, 2007-2009)。三巻本なのだけれど、『ティマイオス注解』同様、冒頭を見て、思うところあっていきなり第三巻へ(笑)。『パルメニデス』の個々の文章に対してコメントが記されていくわけなのだけれど、重複・反復が多くやや冗長な感じも。ま、もっともそれは『プラトン神学』を始め、プロクロスのテキストの特徴でもあるようなのだけれど……。「絶対的」な一者の超絶さと、そこから派生した純粋ではない一者性が織りなす下層の世界との対比が、これでもかといわんばかりに強烈に繰り返される。もちろん、たとえばここから、プロクロス独自の思想の断片を他の著作と比較しながら抽出するような読みを進めていけば、それはそれで面白い作業にはなるはずなのだけれど……一方でちょっとそれはキツそうだし、個人的にはさしあたり着手できそうにない(苦笑)。でもそんな中、『ティマイオス注解』についての、おそらくは類似した問題意識での読解が論文としてネットに出ていることを知った。で、今はこれを興味深く眺めているところ。結構長い論文なので、まだ冒頭の一章を見ただけだけれど、個人的には期待大だ。
マリエ・マルティン『プロクロスによる自然 — プロクロス『ティマイオス注解』における自然哲学およびその方法』というもの(Marije Martijn, Proclus on Nature – Philosophy of nature and its methods in Proclus’ Commentary on Plato’s Timaeus, Philosophia antiqua 121 (Leiden/Boston: Brill, 2010))。序に「プロクロスは悪文の書き手だが(中略)、そのざらついた不親切な文面は、内部からしか見えない多大な濃密さの一面にすぎないことがわかった」とある。こちらは内部に深く潜ったわけではないけれど、なにやら諸手を挙げて賛成したい気分になる(笑)。内容的には、これまでギリシアの科学思想のなれの果てとか、所詮は神学にすぎないとされてきたプロクロスの自然学を、生成の世界と知解対象領域の、つまりは現実世界と認識との「連続性」のもとに改めて再評価しようというものらしい。プロクロスにあっては下層世界も研究対象としての価値があり、上位の世界とパラレルなものとして想定されているということを、ティマイオス注解を通じて検証しようということのよう。まさに個人的にも憧れる感じの研究という印象で、この先の具体的な議論が楽しみ。