またまた面白い論文。イレーヌ・ロジエ=カタシュ「中世における質料的代示と自己指示の問題」(Irène Rosier-Catach, La Suppositio materialis et la Question de l’Autonymie au Moyen Âge, Paper for the congress “Le fait autonymique dans les langues et les discours”, 5–7 October 2000, Paris, Université de la Sorbonne nouvelle)(PDFはこちら)というもの。ある意味語学研究の類に括ってもよい論考なのだけれど、中世(とりわけ12世紀から13世紀)にあっては、それはまた当然のように哲学・神学に直接関係する問題系をも織りなしている。で、ここで取り上げられているのは質料的代示。これは要するに、単語が外的な事物ではなく、その語彙そのものを表すような場合を言う(たとえば「人間は名詞である」という場合の「人間」は、特定もしくは一般の人間を表すのではなく、「人間」という当の言葉を表している)。質料的代示の成立には、当然ながら当時の文法学の記述における自己指示の問題が絡んでくる。トマスなどにも見られる、語そのものを指す指示詞としてlyもしくはli(もとはフランス語)がラテン語に導入されるのも同時期なら、自己指示への論究が増えてくるのもその時期。というわけで著者は、様々な論者が自己指示や質料的代示をどう扱っていたのかを俯瞰していく。
スピノザの形而上学。そこで有名と言われるのが属性概念に関する解釈の対立だ。スピノザの場合の属性というのは、実体において本質を構成するものとされるけれど、これをめぐり、属性は概念的にのみ区別されるとするのが主観的解釈で、いやいや属性はそのものとしてあるような区別されるものなのだ、というのが客観的解釈だと言われる(この属性論争については松田克進「スピノザ解釈史における「属性」論争」(PDFはこちら)という論考があり、とても参考になる)。で、この大きな対立について、ヘントのヘンリクスやドゥンス・スコトゥスを参考にして一石を投じよう(笑)という論考を読んでみた。ジェイソン・ウォーラー「スピノザの属性と、ヘントのヘンリクス、ドゥンス・スコトゥスにおける「中間的」区分」というもの(Jason Waller, Spinoza’s Attributes and the “Intermediate” Distinctions of Henry of Ghent and Duns Scotus, Florida Philosophical Review, Vol. IX, issue 1, summer 2009)(PDFはこちら)。要するにこれは、スピノザが考える属性が、実は13世紀のスコラ哲学で考察されていた「中間的」区分、すなわち実際の区別よりは「弱い」ものの概念的区別よりは「強い」という中間的なものを設定しようという立場、とくにヘンリクスの立場に意外と近いのではないかという話。そう考えると、主観的解釈・客観的解釈それぞれの不備が解消されるのではないかという次第だ。ま、この話の是非はスピノザの研究者に任せるほかないのだけれど、個人的に面白いのは、論考の論旨そのものからすればズレるけれど、そこで引き合いに出されているスコトゥスとヘンリクスのそれぞれの違いのほうだったりする(笑)。
この間のダンテ話で出てきたペトルス・ヒスパヌス。天国編に登場する数少ない「医者」ということだけれど、俄然この人物のそちらの側面がもっと知りたくなってきた。というわけで、とりあえずウォルター・J・デイリー「ペトルスの医術−−13世紀の教訓」(Walter J. Daly, Peter’s Medicine–lessons from the 13th century, in Transactions of the American Clinical and Climatological Association, Vol.109, 1998)という論文を見てみる。これも一種の基本文献。13世紀当時の病気は基本的に悪魔の仕業とされていて、ペトルス・ヒスパヌスの医学書にも、たとえば魔女の呪いの解き方などの処方が記されていたりするという。星辰による健康への影響ももちろん取り上げられているそうだ(当たり前か)。と同時に、その医学書の記述の大きな部分は、ヒポクラテスやガレノスなど、古い時代の「権威」の注釈が占めているらしい。ところがその一方で、主著の『眼について(De Oculis)』には、かなり細かくな眼の記述があり、まだ顕微鏡はなく、人体の解剖も許されていなかった頃だけに、その正確さは驚くべきほどだと著者は言う(おそらく12世紀にサレルノで行われていた豚の解剖がもとになっているのだろうという)。このあたりには、もしかするとペトルスの先進性の一端も感じられるのかもしれない。