夏読書からの未読分がいろいろ積み上がっている(笑)。というわけで、そのうちの一つ、中畑正志『魂の変容−−心的基礎概念の歴史的構成』(岩波書店、2011)から、第5章「志向性−−現在状況と歴史的背景」に目を通す。これ、少し前に取り上げた「非存在主義」の話や、スコトゥスの「名称論」についての論考などにも関連する話……というか、そこで出てきた志向性についての、まさしくそのものの話だ。とくにブレンターノの思想の周辺を考察するというのが趣意なのだけれど、話はアリストテレス思想へと大きくシフトしていく。というわけで以下は個人的なメモ。ブレンターノは「心的現象にのみ志向性が認められる」という立場に立つ。そのため、いわゆる心理主義ということで括られてしまったりもするのだけれど、そうすると一見これはデカルト以来の心とモノの対比みたいな話の延長線上にあるように見えてしまう。けれども、実はここにちょっとした陥穽があるらしい。ブレンターノは心理現象というものを、対象の内在と対象への指示とを合わせもったものだと考えているらしいのだけれど、この「対象の内在」こそが中世スコラ学でいうintentio(これまた志向性と訳したりもできる語なのだが、「内部に留め置く」(in-tentio)という意味でここでは使われている)の継承であるとされる。そんなわけで、そもそもこうした考え方がすでにして歴史的な先例をもっていること、ブレンターノ自身がそれをさらに遡及してアリストテレスから取り込んでいること、などが論述されていく。要するに「質料抜きで形相を受け取る」というアリストテレスの一節を、ブレンターノは「対象的にわれわれの中に内在する」ということに還元するのだという。
そして話はそこにとどまらない。ブレンターノは、アリストテレスとデカルトという相反する思想を、志向的内在という概念によって架橋しようとしたのではないか、と著者は論じている。ブレンターノはアリストテレスの「τὸ αἰσθητόν」を「感覚されたもの」と訳し、「感覚されうるもの」という意味を削いでしまっているとして、すでにしてアリストテレスのいう感覚対象とは離れたものになっているという。で、この解釈は結局、新プラトン主義、アヴェロエス、トマスほかといった、もとのアリストテレスに反する伝統的解釈のフィルターを介しているためなのだという。著者は、そうした伝統的解釈への立脚こそが、アリストテレスからデカルトまでの架橋をなすための危うい足場になっていると喝破する。このあたり、実に読ませる一節だ。また、志向性についてのさらなる議論の可能性として、ファンタスマ(可感的形象)とノエーマ(知解対象)を繫ぐものとしてアリストテレスが言語の介在を示唆しているという重要な指摘もある。著者にならってこれを敷衍すると、言語の志向性が心の志向性に先行するという話にもなる……。うーむ、このあたり、中世の感覚的スペキエスと知解対象の関係と二重写しになるだけに、とても示唆に富んだ内容だ。改めて中世のスペキエスの問題を「言語での扱い」という観点から見直してみたくなったりする。