マイケル・マックヴォー「中世の外科教育」(Michael Mc Vaugh, Surgical Education in the Middle Ages, DYNAMIS, Acta Hisp. Med. Sci. Hist. Illus. 2000, 20, 283-304)を読む。外科治療は中世においては相当に軽んじられていたとされるけれど、実はちょっと違うのではないか、医学と外科治療との溝は従来考えられているほど深くないのではないか、という論文。なかなか勉強になる。13世紀までは、外科治療は徒弟制度としてのみ伝えられていたというが(ボローニャのウゴ・ダ・ルッカのように一族の間で伝承されていた場合もある)、14世紀以降、それまでの徒弟制度のみならず、大学のカリキュラムの中でも教えられるようになったのだという(とくにイタリアで)。外科についても理論書の数々が書かれ(古くは12世紀のルッジェロ、13世紀初頭のロランドなど)、とくにガレノスやアヴィセンナがベースになっていて、大学の学科として教えるに相応しいと認識されるようになっていったらしい。医学と外科の区別も徐々に弱まっていったというわけだ。ただ、そうはいっても外科の学問的地位は低いとみなされ続けていたようで、さらにたとえばパリなどでは、13世紀後半から医学部が外科治療に制約を設けて医者による手術を禁じており、14世紀になってその姿勢はいっそう強固なものになり、外科医はまったく別個の職業となっていたという。パリの医学部が優れた外科医にスカラーとしての身分を与えるのは15世紀を待たなくてはならない……。
論文の冒頭と末尾には、14世紀の高名な外科医、ギ・ド・ショーリアックが取り上げられている。ギ自身はボローニャとモンペリエで学び、医学と外科の修士となっていて、主著の『目録または大外科治療』(Inventarium sive Chirurgia Magna)では、外科医も大学で学ぶのが理想だと述べているらしい。フランスにおいて大学で外科を学ぶ方途が閉ざされていた当時に同書は書かれているといい(1363年)、確かになにやらちぐはぐな感じがするのだけれど、論文著者によれば、南仏での教育や、アヴィニョンの教皇の侍医にまでなったそのキャリアそのものが、アカデミックな外科医という理想をあえて語らせ、やがてはその著書がパリの医学部にまで影響を及ぼすことにもなるのだ、と……。