ちょうど選挙戦も始まるところだし……というわけで、ジョシア・オーバー「デモクラシーの原義は実施能力、多数決ルールにあらず」(Joshia Ober, The original meaning of “democracy”: Capacity to do things, not majority rule, Constellations Vol.15, No.1, 2008)(PDFはこちら)という小論を読む。民主主義は、それを多数決ルールの意味で考える限り、ダウンズの合理的無知(ある案件についての教育コストが知識のベネフィットを上回るとき、それを学ばないのが得策となるという状況)やアローの不可能性定理(3つ以上の選択肢がある場合、社会が選択肢を合理的に選べる条件と、民主的な決定にとって不可欠な条件をともに満たすことをはできないというもの)などの社会的選択のジレンマに直面する。けれどもそのような狭義での解釈は、民主主義が本来有していた価値やポテンシャルを削ぐことになるのではないか、逆に本来の広義の民主主義を押さえることにこそ意義があるのではないか、というのがこの論考の主眼。
ギリシア語では政治体制を表す言葉の語尾が、「〜クラトス」と「〜アルキア」の二種類あり、前者はデモクラシーとかアリストクラシーとかのもとになったし、後者はモナーキー、アナーキーなどのもとになった。ではこれらの二つの語尾は元来どう違うのか。筆者によると「アルキア」語尾のほうは「政務の独占」に関係するものをいい(君主制を意味するモナーキーの原義は、政務の機関を単独の人物が支配すること、となる)、既存の機構を掌握することを意味する。対する「クラトス」語尾は権力を行使する正統な権利を表し、新たに活性化された政治的な力を意味する。デモクラシーはしたがって、デモス(人々)が集団的に担う新たな政治的力、公の領域で人々が事をなす能力のことを言い、アルキアで示されるような既存の機構の掌握にとどまらないのだという。アテネの民主制では実際、政務の割当や議題の決定などにくじが用いられていたりもし、選挙が中心だったわけではない、と。で、この論考は最後に、では民主主義が選挙ルールと同一視され、ひいてはオリガーキー(寡頭政治)と同等と見なされ、アルキア寄りとなって政務の独占と同一視されるようになったのはなぜか、という大きな問題を開いて終わっている。で、ヒントは前五世紀の反民主制論争にあるらしい(?)。