説話の中のネロ

ローマの皇帝(在位54年から68年)だったネロは、一般通念として暴君とされているけれど、そのイメージが先鋭化したのは中世盛期であったらしい……という論考を読む。グリニス・M・クロップ「中世フランスの伝統における皇帝・暴君ネロ」(Glynnis M. Cropp, Nero, Emperor and Tyrant, in the Medieval French Tradition, Florilegium, vol 24, 2007)。ローマの歴史家タキトゥスなどはネロを必ずしも暴君として扱ってはいないものの、スエトニスあたりになると、古典的な暴君像(プラトンが示したような)が注入されるようになるというが、そうしたイメージが大きく前面に出るのはどうやらはるか後世を待たなくてはならないらしい。12世紀のソールズベリーのジョンは著書『ポリクラティクス』においてネロを暴君の一例として示していたが(同書は14、15世紀の政治思想に広範な影響を及ぼしたとされている)、一方でネロが音楽を愛する人物だったといった記述もあって、ネロの評価はやや両義的だという。同時代のコンシュのギヨームによるボエティウスの『哲学の慰め』への註解(改訂版)では、ネロは即位前と後で善人から悪人へと評価が変わっていて、こちらもある意味両義的。これが『哲学の慰め』の仏語訳(1230年頃)あたりになると、訳者がネロについて暴君呼ばわりする一節を「追加」しているほどで、悪しき評価へとだいぶシフトしているらしい。『ポリクラティクス』の仏語訳(ドニ・フールシャ、1372年)でも、もとのラテン語よりも訳語の軽蔑的なトーンが強まっているという。13世紀あたりからそういう評価は強まっていて(13世紀イタリアの哲学者ブルネット・ラティーニなど)、『薔薇物語』のジャン・ド・マンなどもそうだといい、そうした評価のいずれもが『ポリクラティクス』が描くネロ像に呼応しているのだという。

キリスト教的な文脈からすれば、ネロがセネカのほかペトロやパウロを殺害したことは大きな要因とされ、実際に武勲詩などの民衆文学の伝統では、ネロはピラトと同様に悪魔の手先として描かれたりする。シャルルマーニュがサラセンからローマを解放したというフィクションをもとに、「ネロの系譜」という言葉が異教の敵サラセン人を指すために使われたりもしたという。また、キリスト教からすると大罪である自殺で生涯を閉じた点も、そうしたイメジャリーに寄与しているということらしい。

今年の『中世思想史研究』(雑感)

前にも記したと思うけれど、少し前から『中世思想史研究』は扱う題材が本当に多様化して実に好ましい感じになった。今年の号(54号)は特集が「中世におけるプラトニズム I — 教父時代から12世紀まで」となっていて、「アウグスティヌスとプラトニズム」(松崎一平)、「ボエティウスのプラトニズム」(周藤多紀)、「12世紀のプラトニズム」(中村秀樹)、「中世存在論におけるプラトニズムと超越概念」(山内志朗)といった論考が居並ぶ。個人的にはとりわけボエティウスの論が目を惹いた。ポルピュリオスの「分有」概念(プラトン主義的)が原因・結果の関係(アリストテレス的)と一続きであることをを指摘していて興味深い。一方、それにも増していい感じなのが収録論文の数々。現時点での個人的な興味からすると、まず「プロクロス『悪の存立論』とキリスト教思想圏への浸透」(西村洋平)が注目される。プロクロスとディオニュシオス・アレオパギテスの「悪」の捉え方を比較し、ディオニュシオスが文字通り換骨奪胎している様を浮かび上がらせようとしている。「トマス・アクィナス『形而上学註解』におけるordoとpotentia」(古館恵介)は、現実態・可能態と訳されるactus-potentiaを、様態というよりもむしろ順序を表すものとして再解釈できるのではないか、という野心的な議論を展開している。うーむ、これはまた果敢な提案じゃないだろか。「マルグリット・ポレートと修道院神学」(村上寛)は、異端として処刑された14世紀フランスの女性の神秘家マルグリット・ポレート(Marguerite Porete)の著作「単純な魂の鏡」が、その意志論においてクレルヴォーのベルナールやサン=ティエリのギヨームなどの思想を源泉とするということを論じたもの。けれどもなんだか、12世紀の思想の流れというか、むしろ14世紀の同時代的な思想的洗練(たとえばアウグスティヌス主義の刷新などの影響とか?)がマルグリットの中にあるような印象が感じられてなにやら興味深い……。とまあ、そんなこんなで今号もいろいろ楽しめる(笑)。

トルコ文化とファーラービー

ファフレッテン・オルグネル『ファーラービーの哲学』(三箇文夫訳、幻冬舎ルネッサンス)をざっと読む。この著者はトルコの研究者。そのせいもあってか、あまり取り上げられないファーラービーのトルコ人としてのアイデンティティをとりわけ強調というか、前面に出してみせている。西欧への影響関係とかイスラム思想の流れの話などで取り上げられる場合、アリストテレス思想のイスラム圏での注解者といった側面が強調されるファーラービーだけれど、実はそうしたトルコ古来の思想的伝統などが底流をなしているのではないか、というわけだ。というわけで、ファーラービー思想の背景としてトルコ文化を語った第三章や、第四章で触れられている、古代トルコの思想(天の階層)や仏教系の思想的伝統(10種の理性)などが残響をなしているといった話がとりわけ興味深い。また、これまた取り上げられることが少ないファーラービーの音楽理論について触れた第七章では、ファーラービー(やイブン・シーナー)の音楽に関する著書が、フランスの訳者を介して「アラビア音楽」として紹介された(1930年ごろ)ことを激しく批判している。ちなみにそのファーラービーの理論、同書の説明では二度音程(16:17、17:18の振動比率が挙げられている)を体系化したということなのかしら(?)。『大音楽の本』なるその著書を見てみないとわからないけれど……。また、同書で最も長い第六章は、アリストテレス系の論理学、形而上学、倫理学、政治学の、結構手際のよいまとめになっている感じで、有用かもしれない。

ダイグロシアとアングロ・ノルマン語

ルネサンス・近代の文化史家ピーター・バークの講演会を先日青学で聴いた。テーマはダイグロシア。といっても、ここで言うdiglossiaは、本来の同一言語の二つの変種(高位変種と低位変種)を社会的文脈で使い分けるという意味ではなく、社会的文脈に二つの別言語が宛がわれるという拡張された概念のほう。これを初期近代の言語状況に当てはめ、フランス語・イタリア語・スペイン語・ドイツ語などがいかにヨーロッパ各地の宮廷で公式なものとして使用されていたかを説いていくというのが趣旨だった。また、そういう状況となった説明として、政治的な要因だけに限らず、文化的要因も大きいという点が強調されていた。講演ということで時間的制約もあったわけで、全体は大まかな見取り図的な話だったと思うけれど、実際の言語使用状況というのはもっともっと複雑だったんじゃないかなあという気がしないでもない。たとえばエカチェリーナ二世はドイツ生まれながら、幼少時からフランス語を話していて、啓蒙思想にも通じていたとされ、ピョートルの宮廷でフランス語が使われる一因をなしたとされるけれど(質疑応答でも出ていたように思うけれど)、宮廷の日常生活レベルでの言語使用なども含めると、フランス語自体が本来の意味でのダイグロシア化していたりして、全体としてはトリグロシア(拡張した意味で)、あるいはもっと複合的にポリグロシア化していたりしないのかしら、なんてことを思ったりする。また、バークの話は初期近代以降に限った話だったけれど、本来的な意味のダイグロシアはかなり古くからある。というか、かなり普遍的な現象のような印象を受ける。では拡張した意味でのダイグロシアはどうなのか。そちらは具体的な征服とか文化浸透とか、パワーバランス的な要素がやはり大きいのではないかしら、と。

ノルマンディ家(ロロ、ギヨーム1世、リシャール1世):13世紀の図像
少し前に見かけた論文に、アングロ・ノルマン語を扱ったものがあった。リチャード・イングハム「中世イングランドにおけるフランス語のステータス:目的語代名詞の用法からの論証」(Richard Ingham, The status of French in medieval England: evidence from the use of object pronoun syntax, Vox Romanica vol.65, 2006)(PDFはこちら)というもの。アングロ・ノルマン語というと、ノルマン征服の時代にイングランドに伝わったオイル語(北フランス古語)の一方言が母体となった、いわばフランス古語の変種。12世紀からイングランドの貴族階級に使われるようになり(韻文の文芸作品などが残っている)、その後も15世紀くらいまで行政語、文書語として活用されていたという(まさにダイグロシアだ)。同論文は言語学系の細かい議論が中心だが、一言で言うと、アングロ・ノルマン語での目的語をなす代名詞の構文上の位置取りが、14世紀ごろまで大陸のフランス語での変化(不定詞句で動詞の前になる)に沿って変化していることを示している。この一見些細な論証は、実はもっと大きなパースペクティブを開くものなのだという。アングロ・ノルマン語が英語の影響を受けずに独立していることが示されるし、それが14世紀ごろまで、純粋な外国語として習得されていたのではない可能性も開かれる。これはつまり、代名詞の構文上の位置は外国語として習得した場合の弱点の一つとなるのに、そういう誤りが14世紀ごろまで見られないということ。使い手は大陸のネイティブに近い言語運用能力を持っていた、ということになる。1362年に裁判が正式に英語でなされることが決まったのが転機となってアングロ・ノルマン語は衰退し、15世紀になると、不完全な第二言語に見られるミスが散見されるようになるのだという。うーむ、ダイグロシアの微細な変遷が垣間見える一例として興味深い。

修道僧の「呪詛」

あまり頻繁に聞く話ではないけれど、中世の修道僧たちが、自分たちの(というか修道院の、教会の)財産を守るために呪詛を用いていたという話がある。それに関連した論考を読んでみた。ピーター・リーソン「神の呪い:修道院の呪詛の法則と経済」(Peter T. Leeson, God Damn: The Law and Economics of Monastic Malediction, Journal of Law, Economics, and Organization, 2011)(PDFはこちら)。これによると、この呪詛の話、決して中世初期だけのことではなく、中世盛期においても、異教に対する教会の霊的な独占を保護するために、超自然的な処罰を訴えたりしていたのだという。ルネサンス期のフランス、イタリア、スイスなどにおいて、十分の一税の取り立てに絡み、超自然的な処罰を信じさせるために動物裁判を援用していた例などもあるのだとか。要はこれ、超自然を用いた一種の脅しというか、抑止力の行使ということなのだが、同論文は「迷信の法則と経済」の検証と銘打って、修道僧のような「理性的」層の司法制度において、呪いといった明らかに偽の信仰がどのような役割を果たしていたのかを改めて問うている。

特に取り上げられているのは西フランキア(現在のフランスを含む一帯)。修道僧や司教座聖堂参事会員など、その地の聖職者はとりわけ裕福だったという。主な財産は土地とその付属物。聖職者のコミュニティは最大手の地主だった。カロリング朝では王や役人がその財産権の保護にあたったが、9世紀にはヴァイキングの侵攻があり、10世紀にはカロリング朝の王制自体が揺らいでしまう。地方の豪族が力を増し、こうして追い込まれた聖職者たちは自衛に窮し、こうして彼らは呪詛(神への訴え)への依存を深めていく。つまり、そうした呪詛的な礼拝が執り行われたり、怒号を上げたり(?)、財産の略奪者の眼前で聖遺物を汚したりした(本来崇めるべきものを汚すことで、略奪者の側に不利益が生じるという理屈だったらしい)という。さらには、破門や異端排斥を掲げることもあった。こうした呪詛の脅しは12世紀ごろまで結構功を奏していたようで、計量的データはもちろん存在しないものの、語りものの文献などにその効果が示されているという。当然その背景をなしていたのは、一つには教会の権威や信仰の真摯さが社会の隅々にまで浸透していたことがあるだろうし、呪詛についても教会がその行使を独占してたという事実もある。13世紀にいたるまでに、呪詛が正当とされるのは適切な目的のために適切な人物が行う場合に限られる、といったルールの精緻化も進んでいたというけれど、結局は呪詛そのものの正当化にはやはり無理があり(聖書そのものにも呪詛を禁じるパッセージが多々ある)、さらに13世紀にはフィリップ2世による財産保護制度の復活などもあって、国家の役割が強固になるにつれ、こうした呪詛の活用はそもそも不要になり、やがて廃れていくことになる……。

wikipedia (en)より、1470年ごろのウィーンの祈祷書の細密画