「ナラティブ論」カテゴリーアーカイブ

古代ギリシア残照

少し前に触れたモミリアーノの『蛮族の知恵』。同書の最後の章をメモっておくつもりが、まだやっていなかったので、改めて。これによると古代ギリシアの人々は、蛮族と称された他国の人々の文化・伝統に、言語の問題などで、事実上これといった関心を寄せたふうがないとのことだった。同章では東方のペルシア(現イラン)との接触について取り上げているが、ソクラテス以前の初期の哲学者たちが東方ペルシアの思想的(宗教的)影響を受けていたのでは、あるいはギリシアに哲学をもたらしたのは東方のマギたちだ、という話は昔(紀元前)からあったらしい。そのくせ、そうしたコンタクトがなんらかの政治状況によるものだったことが理解されたためしはなく、また他国への関心が向くというようなこともなかったようなのだ。

一方で、マギとかザラツストラ(ゾロアスター)などのイメージは、真偽に関係なく増殖していったという。前3世紀には、プラトンの創設のアカデメイア内部において、セム系のエル神やザラツストラ、さらにはカルデアの神託などに関する議論が巻き起こっていた(プロクロスによる記述)。ヘルメス・トリスメギストスと並んで、ザラツストラの名は、占星術や彼岸の生、自然の神秘などについての思弁を引き寄せる極となり、モミリアーノ言うところの幾多もの愚論を生み出すことになる。偽造・変造の数々は紀元後にまで延々と続いていく。

ヘロドトスが伝えるペルシア戦争(前5世紀)での勝利の後には、ギリシアの軍事的な優位性をめぐる考察(自国をほめそやす民族主義的なもの?)に絡んで、ギリシアにおける新たな民族誌の擁立が導かれたというが、ギリシア人がペルシアの行政機構を対象とした考察をめぐらすことは、前4世紀にいたってもほとんどなかったようだ。ペルシアについて記したクテシアスを敬意をもって引用するクセノフォンですら、ペルシアの社会についてはまったく関心を寄せていないという。同時代のプラトンやアリストテレスにしても同様だったと、モミリアーノは述べている。

メルマガで見ているフェスチュジエールは、アレクサンドロス大王のコスモポリタン的な思想が、教師役だったアリストテレスによるものではないとしているが、モミリアーノによれば、アリストテレスがアレクサンドロスに宛てた、真贋が定まっていない書簡(アラビア語訳)が残っているそうで、そこではギリシアの民族主義とともに、(それと相矛盾するかのような)普遍的国家の構想が謳われているという。モミリアーノはそれが帝政ローマ期に書かれた贋作との見方を強めている。重要なのは、帝政ローマでコスモポリタン的な思想が広がると同時に、その前モデルとしてのペルシアが再浮上したという構図だ。コスモポリタン思想の起源が、ギリシアそのものというよりペルシアあたりにあったかもしれない、という見立てだが、これは果たして正鵠を射ているのだろうか?

ギリシアは他文化に関心を寄せる度合いが少なかったが、逆に他の民族はヘレニズム文化にそれなりの関心を寄せている場合が多く、マケドニア系のセレウコス朝や、それに続く前3世紀のパルティア帝国(前3世紀の古代イラン王朝)などでそのことは顕著だったという。とくにこの後者は、ギリシアのものを模した貨幣を作ったり、ギリシア的な知的活動に力を注いだりしていたという。ギリシア人を積極的に国家の要職に登用していたとか。けれどもそうした在パルティアのギリシア人らは、パルティアの歴史や地理について記すことはなく、パルティアについての研究が出てくるのはローマ時代のストラボンやトログス(前1世紀)を待たなくてはならない。繰り返されるこの一方通行感……。それでいて、上でも触れたように、ギリシア文化が蛮族の知恵に全面的に依存していたという印象もまた、ギリシアの内外で様々な偽造を通じて膨らんでいく。そういうところに、なにやら文明の退潮が重ね合わせられるかのようだ。

歴史記述の諸問題

歴史記述の黎明

今年の初めに続き、アルナルド・モミリアーノは仏訳本だけでも読んでおきたいと思い、今度はNRFの『歴史記述の諸問題――古代と近代』(Arnaldo Momigliano, “Problèmes d’historiographie ancienne et moderne“, Éditions Gallimard, 1983)を取り寄せてみた。英語およびイタリア語で発表された論文をまとめたもの。フランス独自の編集なのかもしれない。古代ギリシアからローマ、さらにはユダヤ教・キリスト教世界、中世、ルネサンス、近代と、ギリシアの歴史記述の伝統がどう扱われてきたかについての各論の数々、そして書評論文などから成る。さしあたりいくつかの論考を眺めてみた。初っ端を飾る「ギリシアの歴史記述」はいわば概論、2つめの「古典世界の歴史家とその聴衆――いくつかの示唆」は受容史。ほかに興味深い章題には、「歴史記述史のなかのヘロドトス」、「西欧におけるポリュビオスの再発見」などなど。

古代ギリシアの歴史家と言えば、まずは誰よりも前5世紀のヘロドトスとトゥキディデスが双璧。ヘロドトス以前にももちろん先達はいる(ギリシアの神話の系譜をまとめたミレットのヘカタイオス)し、同時代人もいた(局所的な歴史を記したレスボス島出身のヘラニコス)が、まずはその二大巨頭の比較論が興味深い。ヘロドトスの独自性は戦争史の秩序立った語りと、戦争の原因をめぐり民族誌や政体史を始めて活用した点にあった。一方、トゥキディデスは民族誌を援用することなく、軍事の歴史と政体史を、直接的な近因と遠因の双方の視点から描き出すという方法を取った。民族誌は基本的にギリシア人と蛮族とを分ける発想をもとにしていて、それに依拠するかぎり、非ギリシア語圏については粗末な言及しかないという。

一方、この両者にはもちろん共通点もあって、ヘロドトスは自分が直接目にしたことを重んじ、トゥキディデスもそれを継承し、同時代史をとくに重んじていた。局所的な地方史よりもギリシア全体の歴史に目配せしようとするところも共通する。散文から派生した「歴史」を、他のジャンルから区別されたものとして確立していくのも両者だ。それは神話の要素が後退していく頃合いと時を一にしてもいた。

モミリアーノは、そうした記述やアプローチの継承関係についてさかんに言及している。歴史記述は古代ギリシアにおいては学として確立されていなかったが、それでもトゥキディデスの方法論は継承されていく。著名な歴史家の多くが、祖国を離れた流浪の状態で歴史記述を行っているとの指摘も示唆的だ。トゥキディデス、クセノフォン、クテシアス、テオポンポス……さらに時代が下るとポリュビオスやハリカルナッソスのディオニュシオスなどなど。戦記と政治史を中心とするトゥキディウスのモデルは、前4世紀にもてはやされ、後のヘレニズム期、ローマ時代、ビザンティン帝国期へと受け継がれていく。一方でクセノフォンが平行して用いた私的な思い出を語るというスタイルは、長い時間をかけて人物伝、ひいては自叙伝へと発展していく。

歴史書の受容史もまた見逃せない。ヘロドトスが定期的に公の場での朗読会を開いていたことが示されている。トゥキディデスはそれにかなり批判的だったという(聴衆が好むのは驚異的な話で、それがないと朗読会は盛り上がらないことなどを指摘しているのだという)。ヘロドトスは朗読会を通じてかなり高額の報酬を得ていたらしい。朗読会はその後も長く継承されながら、一方で文書の拡散に伴い重要性を失っていく。デモステネスはトゥキディデスを8回も筆写したというし(ルキアノスの記述)、ブルトゥス(前1世紀のローマの軍人)はファルサロスの戦いの前日までポリュビオスを要約本を読んでいたのだとか。こうした小ネタ的な言及も興味深い。

経験知・暗黙知と理想化

思うところあって、ハロルド・ギャティ『自然は導く』(岩崎晋也訳、みすず書房、2019)をざっと読んでみた。自然のただ中で迷った際に、様々な事象がナビゲーションのヒントをもたらしうるということを、具体的な事例で解説してみせた古典。最初の数章が概論で、残りはテーマ別に具体的な事例(やや散漫な感じもしないでもないのだが)を挙げていく。ポイントは、訓練を積むことで観察眼を養い、ナビゲーションに役立つ自然からの情報を目ざとく取得できるようになるということ。経験知がものを言う分野なのだが、おそらくそうした訓練も、どこか暗黙的な経験の積み重ねによるものと思われる。親世代の田舎の老人たち(今80代くらいの人々)には、ローカルとはいえ、山菜やキノコ狩りのために道もないような山に入って迷わず戻ってこれる経験知が少なからずあった気がするが、同書で記されていることのなにがしかの部分が実践されていたのかもしれない、なんて思ったりするのは楽しい。

ただ、そのような暗黙知のような経験知を、本のようなかたちで書き出してしまうと、何か微妙な違和感を感じたりもする。多少とも抽象化されていて実物からはかけ離れてしまうカラーの植物図鑑の絵のように、それを実地の見分に応用するには、こちらの想像力で補うしかないかのようだ。長らく忘れていた、そうしたギャップを、久々にまざまざと思い起こすことになったが、それこそが同書を今読む大きな利点かもしれない。

少し前から断続的に読んでいる桑木野幸司『記憶術全史――ムネモシュネの饗宴(講談社選書メチエ)』(講談社、2018)も、同じような感触を喚起するものかもしれない。記憶術の基本として、基本的には場所(ロクス)や格子のような「入れ物」を思い描いて、それに記憶する対象をはめ込んでいく、などと言われる。伝統的にもそういう記述がなされてきたし、曖昧ながらそれはそれで納得できる部分もある。けれども優れた記憶をもつ人が実際に行っている心的操作というものは、具体的な方法を問われて語っているそうした形象ほど、明確なロクスなり格子なりの入れ物を形作っているのかどうかは定かでない。記述というものは、どこか理想化され抽象化されたものである可能性が、どこまでも残るものなのかもしれない。史的な記憶術の記述も、どこかそうした根本的な語りの作為性のようなものを引きずっている気がする。もちろん個別の記憶術の書は、この研究書が示すように、それ自体として興味深い図像学的対象でもあるだろうし、そこから分類法とか、百科全書的な方向、博物学の方向へと開かれる伝統をなしてきたのだとしても。同書が取り上げる図版の数々にしても、多くはある種の理想化を施したものではないのか、庭園の図などが実際の庭園をそのまま描いているのではないのではないか、といった疑問も浮かんでくる。当時の図版がどれほどの理想化を施したものなのか、査定するすべはあるのだろうか?

とはいうものの、それとは別の意味で同書もまた貴重ではある。つまり、16、17世紀の記憶術本の概要をいくつか載せている点だ。ロッセッリ『人工記憶の宝庫』、デル・リッチョ『記憶術』などなど。重要文献であっても翻訳出版など望むべくもないものを、概略的にではあっても伝える労苦は称えられてしかるべきで、一般向けの人文書は、まさにそういうところで命脈を保っていく使命があるようにも思う昨今である。

今年の年越し本から

明けて2020年。今年もぼちぼちと本ブログを記していこう。年末年始に読む本を個人的に「年越し本」と称しているが、今年も何冊かに目を通している。まず、これはなかなか痛快な一冊。小川さやか『チョンキンマンションのボスは知っている』(春秋社、2019)。アングラ経済のフィールドワークを手掛ける人類学者が、香港のタンザニア人移民コミュニティの実態を豊かなエピソードを交えて活写するというエッセイ。どこか飄々として、いい加減にも見えるゆるい行動の背後から、普通の売買などとは別様のシステムが浮かび上がってくる。

互酬制というと、どうしても贈与の相手との直接的な相互のやりとりを連想してしまいがちだけれど、そこでの「ついで」としての助け合いや贈与は、その相手からの直接的な対価を期待したりはしない。報酬は別の筋から、回りまわってもたらされるのだ。誰かが「負い目」を感じることのないように、「負い目」は広く共有され拡散されている。そうした相互扶助の上に、彼らは市場交換の仕組みを築いているというのだ。そのための基本的な条件となる買い付けの情報などはオープンにされていなくてはならない。かといって相互の競争を制限することがあってもならない。誰もが仲間としてゆるく連携しながら、個々の利益のためにしのぎを削る、というわけだ。「金は天下の回りもの」を地でいくこのゆるやかなシステムは、硬直し歪んだ寡占的な商業関係へのオルタナティブとして、批判力に満ちているように見える。決して発展途上国的な限定的体制ではない。

もう一冊の年越し本は、アルナルド・モミリアーノ『古代ギリシアにおける伝記の起源』(71年刊)の仏訳本(Arnaldo Momigliano, “Les origines de la biographie en Grèce ancienne”, Circé, 1991)。モミリアーノ(1908 – 1987)は古代史、とくに史料編纂の研究を手掛けた歴史学者で、同書は邦訳もあったはず(『伝記文学の誕生』)。昨年の夏くらいに朝日の記事か何かがきっかけで、ツィッター界隈でやたらと言及されていたのが印象的だった。今回は仏訳版の古本を最近入手したので、これをざっと読んでみているところ。

ギリシア世界で「伝記」といえば、たとえばプラトンやクセノフォンによるソクラテス伝が思い浮かぶが、当然ながらそうした伝記文学の起源はソクラテスではない。で、それが成立したのかを、史的な流れから紐解こうというのが同書。話は前5世紀に遡り、どうやら古代ギリシアの貴族階級が家系図の作成に拘っていたことや、神話の英雄たちや、いわゆる「ギリシア七賢人」(前6、7世紀の知恵者たち)へのコンスタントな関心などが源流となっていたようだ。ただこの流れはいったん終息し、前4世紀になると、新たに哲学や雄弁術の諸学派が人物についての語りの技法をゼロから発展させていくのだという。プラトンやクセノフォンを含むソクラテスの弟子筋もそうした流れの中にあった。クセノフォンのモデルを提供したのは、ソフィストとして糾弾されたイソクラテスだったりもした。ほかに伝記文学の成立に重要な貢献を果たした人物として、アンティステネスやテオポンポスが挙げられている。

もちろん彼らは、現実と虚構とをごちゃまぜにして記述を進めていくのだが、それでもそこには確かに伝記文学、さらには自伝の萌芽があった。けれども、人物の生涯について真正の事実を集めることを重視したのはアリストテレスとその一派になってからだった。ヘレニズム期の伝記文学を考案した人物として重要視されているのは、アリストテレスの弟子筋の一人、アリストクセネスだったとされる。一方、同じくヘレニズム期の自伝の伝統を担ったのは、ほぼ政治家に限られ、プロパガンダや自己弁護のための手段として用いていた……。要約してしまうと平坦な印象になるかもしれないけれど、なるほどモミリアーノは、方法論的にも、学知への真摯な姿勢でも、また博学ぶりでもなかなか興味深い。ほかの著書も探してみたい。

……そういえば年末に、同じくギリシア関連で、ピエール・アドの初の邦訳が出たようだ。これは嬉しいかも。そのうち見てみることにしよう。

見えないものを見るために?

年の瀬だからというわけでもないのだが、未読のままだった約半年分の岩波『世界』にざっと目を通す。とくに最新号の1月号(特集「抵抗の民主主義」)に掲載された山本圭「批判なき時代の民主主義」が心に突き刺さる感じ。この論考はまず、今の時代は、フェアな土壌の上で政治的な批判や対立を示し相互に戦うことを、周到に回避するようになっていると指摘する、次いでその背景として、様々な社会的分断を見せないようにしたり、中和したりするような、各種の装置や制度の多用を指摘してみせる。ときにそれは天皇制のイデオロギー(各種の礼祭や祝賀パレードは、政治的立場や利害を超えてコミットさせるものだとされる)だったり、選挙(それは分断を見せつける仕組みだったりする)以外で民主主義を考え直そうという機運だったりする。

そうして批判や対立が弱まり、否定的なものは隅に押しやられはするけれども、ときにそれは暗部として回帰することがある。たとえば右派左派双方のポピュリズムなどもその典型だ。論考の著者は次いで、相互の闘技的な敬意にもとづく対立や批判をアゴニズムと呼び、一方で対立する相手を単純に敵と見なして全否定したり、あるいは悪魔的存在と見なしたりする動きを、アンタゴニズムと呼んで区別する。そしてこの後者には、実は自己のアイデンティティにとって、矛盾する二つの役割を果たすのだ、と。つまりアイデンティティの十全な構成をブロックすると同時に、アイデンティティを作り出すそもそもの構成的外部でもあるという(エルネスト・ラクラウの議論)。ポピュリズムを、その粗暴さゆえに十全に認められなくても、追い払うことがかなわないのは、そうしたアンタゴニズム的な二つの役割がそこにも見いだせるからだ、と著者。そうしたアンタゴニズムを民主主義にとっての課題として受け止めることが重要だ、と説いている。

それにしても日本の場合には、そうしたアンタゴニズムの言説にもなにがしかの文化的特徴があるのではないかしら、なんてことも思ったりするのだが、ちょうど積読から引っ張り出してきた本がそういうものを分析しようとしていて興味深い。内藤千珠子『愛国的無関心――「見えない他者」と物語の暴力』(新曜社、2015)がそれ。基本的には近代の小説のテキストを分析しつつ、マイノリティを排除する言葉の力学のようなものをあぶりだそうとするもの。愛国的な運動に身を投じる人々があえて目にしようとしない、無関心を装う対象とする「敵」。そこで排除されるのは要するに<絶対化された>他者だが、この無関心の回路を担うのは、実はなにげない文化的装置としての伏字だったりするのではないか、と著者は問う。伏字には、検閲的に明示することを避けつつも、伏せている字は誰の眼にもあきらかだという構造がある。それが「あるはずのものを、ないものとして扱う感性を作り出す」(p.44)のではないか、と。

このこと自体、歴史的に、1930年代のナショナリズムとマルクス主義との対立にまで遡ることができる、と著者は言う。当時のナショナリズム(日本主義)は、スキャンダルを求める当時の大衆の要求に応えるかたちで、もともと関係のないマルクス主義と近接の関係に置かれ、なんらかの関係性をまとい、物語化されていったと看破する。

そのプロセスは、ナショナリズムとマルクス主義のそれぞれのファクター(たとえばナショナリズム側から「民族」や「人種」などのキーターム)の物語が、相互に相手を「敵」として「内在化」してしまうのだ、という。あとはもはや通俗的な紋切り型として、相手への無関心はそのままに、対立の構図は反復され定着していくだけとなる……ときにはまやかしにすぎない逆転の構図や、熱狂的な攻撃すら伴って。「日本的感性」とされる伏字の構図は、とても根深いものであることに改めて気づかされる。