デカルトからの反照

スアレス研の一環という意味合いも含めて、今年は少しデカルトの周辺、デカルト前史というあたりも眺めてみたいと思う。そんなわけで、まずはデカルトの同時代的なアリストテレス主義の話から。 『デカルト必携』という書籍(未入手だけれど)から、デニス・デ・シェーヌ(ワシントン大学、デカルトのほかスアレスなどの研究も多数あるようだ)担当の一章「アリストテレスの自然哲学:物体、原因、自然」(Dennis Des Chene, Aristotelian natural philosophy: body, cause, nature, A Companion to Descartes, Wiley-Blackwell, 2010)がPDFで公開されている。。同時代のアリストテレス主義の自然学がどのような問題を扱っていて、デカルトが対照的にどういう立場をとっていたかを手際よくまとめている。デカルトの参考書のためのものだけあって、アリストテレス主義側の具体的な事例は必要以上には詳述されていないけれど、大枠の理解としては参考になりそうだ。13世紀半ばから大学のカリキュラムに入っていたアリストテレスだけれど、16世紀後半には、それまでのアリストテレスの著作への註解ならびに問題の検証という形式が、主題別により体系的に内容を扱う講義もしくは教科書の体裁が確立する。スアレスの『形而上学討論』、ロドリゴ・デ・アリアガ『哲学教程』など。アリストテレスのような古典としての権威はなかなか崩れはしないものの、神はともかく人の権威者たちは、信仰の面でも経験上からも、少しずつ重みを失いつつあったという。デカルトの登場はまさにそれを体現している、と。

スアレスなどは、実体と様態を区別するとともに、いくつかの属性(量や色など)には「レス」(事物)という独立した地位を与えて、存在論的に独立したものと見なしているというが、デカルトからすれば実体と様態の区別以下は必要ない(神学の側がそうした区別にごだわるのは、実体変化の教義を説明づけなくてはならないから)。また、アリストテレス主義が(というかトマス主義だけれど)すべての事物に一つの実体的形相と偶発的な属性の変化を認めるところで、デカルトはその粒子論的な立場から、実体的と偶発的の区別は不要だと考える。「量」については、スアレス(とペドロ・ダ・フォンセカ)はそれが質料に拡がり(extension)をもたらすものであるとして、拡がりに現勢態と潜在態を区別するが、対するデカルトは拡がりは一様でしかないとし、そこに実体と量との区別を認めない。そもそもの質料についても、スアレスは質料が量を受容できることが形相と結びつく前提条件としているのに対して、デカルトはそもそも物体それ自体が実体であり「形相」に相当するものは拡がりにほかならないとする……。ほかに原因論についてもこうした立場の違いが明確に整理されているわけなのだけれど、こうして見ると、やはりそれぞれの議論に、ここで整理されている以上の細かい記述を具体的な著書なり思想家なりに沿って見ていきたい気分になる。デカルトの周辺・前史への取り組みは、おそらくそういう形を取っていくのが望ましいかな、という感じ。