「唯名論者オッカムはスコトゥスの実在論を批判した」という通念的な理解は、実際に少しでも両者のもとのテキストに触れてみるとひどく単純化したものであることがわかる。どちらも微妙な違和感が伴うからだ。そうした違和感を少しでも整理しようという論考が、JT・パーシュ『普遍と個体化をめぐるスコトゥスとオッカム』(JT Paasch, Scotus and Ockham on Universals and Individuation, Academia.edu)。普遍をめぐる理論には(1)極論的実在論(プラトン的に外部世界に普遍が存在するという立場)、(2)内在論的実在論(個の中に要素として普遍が存在するという立場)、(3)トロープ理論(同類の特性が個のそれぞれに存在するだけだという立場)、(4)唯名論(普遍は一般概念にすぎないと見なす立場)に分かれると論文著者は言う。これをもとにスコトゥスとオッカムがどこに位置するのかを探ろうとするのだけれど、それぞれに曖昧さ・混乱があってこれはなかなか容易にはいかない。
スコトゥスは(2)の立場に立つ形で、個が「共通本性」と「このもの性」から成ると考える、とされる。しかしながら、まずもって共通本性の考え方が曖昧で、共通本性が個に宿る際にそれが個別化されるのかどうかが微妙にわからない。もしそうだとするとそれはトロープ論になってしまうが、スコトゥスはそれは打ち消しているようだ。一方では本性は普遍ではないという言い方もしているらしく、結局本性は個別でも普遍でもない、ということに(?)。それではスコトゥスは(2)でも(3)でもないことになってしまう(もとより(1)ではない)。またこのもの性についても曖昧さが残り、それが本性とどう関係を結ぶのかがはっきりとはわからない。本性とこのもの性は「形相的に区別される」というのだけれど(ここに三位一体論が絡んでくる)、このあたりはオッカムの批判を呼ぶことにもなる……。
オッカムはバリバリの唯名論と思われがちだが、論文著者はむしろ(3)寄りではないかと考えている。オッカムが批判するのは(2)の立場で、その反論はどれも厳密にはいささか弱いようだ。スコトゥスの形相的区分に対するオッカムの批判も、著者によると論理学的な考察としてベストなものではない。オッカムが(3)のトロープ理論的だというのは、個が同じ種に属するとされるのはいかにしてかという問題に腐心しているからで、普遍を純粋に概念と見なすというドライな立場を取ってはいない。とはいえその説明づけの義論はやはり曖昧なままだというのだが……。こうして見ると、それぞれの論者の議論を丹念に追うのはなかなか難しいことと、けれどもそうした作業が必須であることが改めて鮮明になってくる。普遍論争の周辺はテーマとしてなかなかに手強い。そういえば唯名論の嚆矢とされるアベラールにしてからが、あの『ロギカ・イングレディエンティブス』を別にすれば、なにやら読みようによっては実在論っぽい言及箇所も散見されていたように思うし……(?)。