ちょっと古典的な趣きすら感じられる、でもなかなか興味深い1976年の論考を読む。セオドア・トレーシー「プラトン、ガレノス、および意識の中心」(Theodore J. Tracy, Plato, Galen, and the Center of Consciousness, Illinois Classical Studies vol. 1, 1976)(PDFはこちら)というもの。ガレノスが『ティマイオス』の注解を著したりして、プラトン主義に馴染んでいたことはよく知られている。でも論文著者によれば、『ティマイオス』にプラトンが取り込んでいた当時の解剖学・生理学・心理学・病理学などの知見は、その後の医学的権威たちによって真剣に受け止められ、かくしてプラトンはアリストテレスを通じて間接的に学術的伝統に影響を及ぼしていただけでなく、医学の専門家たちからはその筋の権威として崇められていたことが見出されるのだという。で、ガレノスもそういう一人だったとされる。ガレノスは著書の随所で、プラトンをそういう権威として引き合いに出しているという。ではなぜガレノスは、アリストテレスやその他のギリシア・ローマの権威を差し置いて、プラトンを選んでいるのかという疑問がわく。その一つの契機として、ガレノスの神経解剖学的関心と、「意識の中心」がどこかという当時決着のついていなかった問題があったのではないか、というのが同論考の中心的な仮説だ。
知的活動の局所問題について、同論考は略史を示してくれている。思考や感情がどこに宿るのかというのは古来からの大きな問題だった。紀元前5世紀のクロトンのアルクマイオン(初の人体解剖をしたとされるピュタゴラス派の解剖学者)はそれを脳に位置づけていたが、その後の世代にあたるエンペドクレスなどは、思考や感情を心臓の周りの血に関連づけていた。ヒポクラテスは脳が意識や知性の中心だと主張していたが、文献的にはやや曖昧なところもあったりするようだ。で、プラトンだけれど、そちらも理性的魂を脳に位置づけている。ところがアリストテレスにいたると、生命原理を心臓に一元的に求めるようになる。アリストテレスの同時代の医者だったディオクレス(アテネで第二のヒポクラテスと呼ばれていた人物)とその弟子筋も心臓説を採用し、さらにはストア派やエピクロス派がその説を採用するにいたって、心臓説は広く人口に膾炙するようになった。一方の脳中心説はどうなったかというと、アリストテレスの死後半世紀たったころ(紀元前3世紀前半)、ヘロフィロス(神経解剖学を進展させた医者)とその弟子などが脳中心説を擁護したりもするのだけれど、結局それはガレノスの時代の直前まで、約300年の長きにわたり進展もなく、ひたすら無視され続けることになる。ガレノスは独自に解剖学の研究を重ね、思考が脳に依存していることを訴えてストア派や逍遙学派に対抗する立場を取るようになる。ガレノスはこうして、いわばごく自然にプラトンへと接近し、プラトンの立場を擁護するようになったのではないかというわけだが、そうはいってもガレノスの生涯とプラトン主義の関わりは不明瞭なままで、そのあたりはやはり難しい問題なのだなということが改めて窺える。