個人的にはローマ史そのものについてはさっぱり詳しくないのだけれど(苦笑)、最近では史実とされたいろいろなことが改めて見直されているらしい。もっとも、それこそが歴史学を眺める醍醐味なのだけれどね……。たとえば3世紀のローマ危機についてもそうで、ルーカス・デ・ブロイス「ローマ帝国の三世紀の危機:近代の神話?」(Lukas de Blois, The crisis of the Third Century A. D. in the Roman Empire: A Modern Myth?The Transformation of Economic Life under the Roman Empire, ed. L. de Blois and J. Rich, Brill, 2002)という論考を最近目にしたのだけれど、これまでの議論の流れを手際よく整理してくれている。ローマ帝政における3世紀の第2、第3四半期が暗い時代だったという話は、主として帝国内の内的な要因に起因するところが大きいとされてきた(軍人の専制へのシフト、軍の勢力拡大、経済問題、宗教・文化的な後退などなど)。一方で、そうした沈鬱な描き方を疑問視する立場もより最近になって現れているらしい。戦禍に見舞われたライン地方やドナウ川中流域では都市や農業の維持が困難になったものの、バルカン半島はそうはなっておらず、3世紀末になってもまだ多くの都市が繁栄を維持できていたといい、要するにローマ帝国全体として見れば多くの地域で従来からの継続性が際立っているという見立てだ。そちらでは考古学的な裏付けなどが証拠として多用されたりもしているらしいが、論文著者はやや懐疑的だ。考古学的史料は物質文化の水準については教えてくれるが、たとえば人口動態などの問題には光を与えない。論文著者はむしろ、そうした伝統的な繁栄の維持の一方に、租税の重圧など社会情勢の緊張の増大があったことを指摘している。その上で、どうやらそうした「危機」の最も大きな要因として、東部・北部の国境での戦禍が関係していることを同論考は示している。
これまた実に面白い論考。レイモンド・パウエル「カタリ派終末論の問題」(Raymond A. Powell, The Problem of Cathar Apocalypticism, Koinonia, Vol.14 2004)というもの。カタリ派は10世紀後半から12世紀にかけて南フランスと北イタリアを中心に広がった異端思想で、異端審問の専門化やドミニコ会の成立などを促す契機になった思想潮流だったとされるが、実際のところその教義内容にはかなりの幅があるといい、時代や地域で相当に中身は相当異なっているようで、穏健派から強硬論までいろいろな分派があったとされる。たとえば二元論の考え方自体についても諸派で立場は異なっているという。善悪二つの同等の原理(神)の拮抗は永遠に続き、結果的に悪の原理によって創られた物質世界(現世)も、善の原理による精神世界と同様に永劫的に維持されるとする立場(強硬論)がある一方で、現世は悪しき原理の所産だけれども、それは過渡的なものにすぎないとする立場(穏健派)もあったりする。けれどもここで、前者の強硬論の立場を取ると、逆に終末思想はありえないことになってしまう。また後者の立場においても、物質的な世界の過渡性が引き合いに出されるのはあくまで善の原理によって創られた精神的な世界の永劫性を強調するためだったりするともいう。こうして、一般に終末思想的に彩られているとされてきたカタリ派が、実は終末論を内包していないのではないかという新しい(?)仮説が浮上する。
霊魂可滅論は原子論との繋がりが深く、両者が中世盛期に再浮上する背景の一つに、分解と再結合を謳う錬金術の隆盛があったのはほぼ間違いないと思われるのだけれど、可滅論・原子論・錬金術の中世盛期以前の流れがどんなものだったのかはあまりよく見えてこないなあ……と思っているさなか、ビザンツ時代の錬金術について取り上げた論考を目にした。文献学的なアプローチで迫る、ミシェル・メルタン「ビザンツのギリシア・エジプト系錬金術」(Michèle Mertens, Graeco-Egyptian Alchemy in Byzantium, The Occult Sciences in Byzantium, ed. Paul Magdalino & Maria Mavroudi, La Pomme d’or, 2006)というもの。紀元後前後にギリシア・ローマ時代のエジプトで誕生したとされる錬金術が、ビザンツ時代(5世紀以降)にどう伝わっていて、どのように営まれ、どう変遷してきたかといった問題を、文献学的な見地から検討した一編。前半はビザンツ期の三種の写本(錬金術集成)を紹介している。キーとなるのが、錬金術を高めたとされるパノポリスのゾシモス(3世紀)にまつわるテキストの数々。主著『真正なる覚え書き』のほか、短いテキストや断片などが三種の写本に様々におさめられているようだ。
これまたほんの数日前に紹介されていた論考だが、マリア・イエスス・フエンテ「現在の眼を通じて過去を構築する:中世スペインの諸国は寛容のモデルだったか?」というペーパー(María Jesús Fuente, Building the past through the eyes of the present. Were the Kingdoms of Medieval Spain a model of tolerance? Paper given at the 3rd Global Conference, 2009)を読む。中世スペインにおいて異なる宗教共同体同士は、果たして相手に対して寛容だったのか、それとも対立的だったのか?この古くからの問題を改めて考察し、2000年代に出た「寛容論」の書籍を批判的に取り上げている。そうした書が出てきた背景には、同時多発テロ以降の宗教的対立の文脈で、対立の緩和のためのより対話志向の議論を目した一部の論者たちが、過去の「寛容」の事例を探し求めたことにあるという。結果として出てきたのが中世スペインというわけなのだけれど、論文著者はこれにもっとニュアンスをもたせるべきだというスタンスを突きつける。実際のところ、そうした議論を考える上で考慮すべき点は多く、一口に中世スペインとして括るのは難しい(そりゃそうだ)。ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の関係性は状況によって絶えず流動的で、たとえばアラブ統治期(8世紀から13世紀)とその後のキリスト教統治期で違うばかりか、地域ごとの違いもあるという(これももっともなこと)。文化の上層・下層の差などもあり、詩や文学、音楽、美術といったいわゆる「ハイカルチャー」での交流はあっても、より低次の、たとえば宗教儀式や慣習といった固有の文化は各共同体が死守・温存しようとする。また、そもそも「寛容」という言葉の意味も昔と今とでは異なっているという。中世末期頃の文献からは、当時の「寛容」(tolerance)が「持続、存続」を意味し、同化が不可能であるようなものに対する唯一可能な態度が、その存続を許すという姿勢だったという。なるほどこれは面白い指摘。昨今の寛容という言葉に込められている「大目に見る、異なるものを積極的に受け入れる」という意味合いとはだいぶ異なっているというわけだ。調和(conveniencia)や共生(coexistencia)という言葉を使う研究者もいるとはいえ、文化的な側面以外、つまりは社会的な関係性を広く見る場合にはそうした概念も必ずしも一様には適用できない、と論者は述べている。