ちょっと着眼点の面白い絵画論を読んでみた。バーバラ・ジラム「初期ルネサンス芸術における重ね合わせ問題」(Barbara Gillam, Occlusion issues in early Renaissance art, i-Perception, vol.2, 2011)というもの。この論考で問われているのは、絵画において人物やモノが重なりあっていること(occlusion)、つまり隣接する表面が実は別々の深度にあって、一方が他方の後ろに回っていることをどう表現しているかという問題。中世末期からルネサンス初期(一四世紀のシエナとフィレンツェ)の絵画でこれが問題になるのは、ときにそれが微妙に「変な」表現になっている場合があるからだ。たとえば一四世紀のジョットの一枚≪ヨアキムとアンナの黄金門での出会い≫の左下で、顔がくっついているように見える部分(画像参照)。これは反例の一つなのだけれど、こういうところから、もっと自然な深度が得られる条件とは何かを探っていこうとする。ま、条件そのものはそれほど意外なものではなく、T字交差(T-junction)とかエントロピー・コントラスト(entropy contrast)とか、なにやら物々しい専門用語が使われているけれど、要は重なる手前側と向こう側のそれぞれの要素の独立性(の印象)が強まればよいということだ。手前側が凸状であるほうがよいとか、地面の描き込み、俯瞰的な視点を取る、グループ化するなど、そうした区別をはっきりさせるテクニックはいろいろあり、実際にそれらの実例がジョットやドゥッチョなどの絵画に散見される。論考はそれらの実例を列挙している。ドゥッチョの場合には顔の重なりを避けていて(ジョットとは対照的に)、聖人を示すのに用いられる光輪を、そうした直接の重なり回避のために用いていたりもするようだ。
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で、ふと思ったのだけれど、この重ね合わせという絵画的現象は、ある意味で「ライン」の生成の一事例という感じもしなくない。先日読んでここでも取り上げたインゴルド『ラインズ 線の文化史』ではないけれど、こうした重ね合わせは知覚に生じるごく原初的な「エクリチュール」であるというふうにも言えるかもしれないなあ、と。さらには、カオスの中からまとまったゲシュタルトを切り出してくる作用という意味で、それはアルシ・エクリチュールと呼んでもよいのかもしれない、と(デリダのもとの用語とは意味合いがずれるだろうけれど)。そうした知覚や認識の深い部分に関わる研究というのも、集めてみたら面白そうだと思う。というわけで、このブログでも新カテゴリーとして「アルシ・エクリチュール論」というのを設けてみることにしよう。