アラブ世界のピュタゴラス受容

これまた久々だが受容史もの。アンナ・イズデブスカ「中世アラブ知識人たちのピュタゴラス哲学への姿勢」(Anna Izdebska, The attitudes of medieval Arabic intellectuals towards Pythagorean philosophy: different approaches and ways of influence, author’s personal copy)というもの。ピュタゴラス思想のアラブ世界での受容ということで、なかなか興味をそそる。未刊行の論考らしいのだけれど(著者はこのテーマで博論準備中なのだとか)、先行研究を実にコンパクトにまとめていて有益だ。初期のギリシア文献の流入時、その翻訳に当たった人々の間では、ピュタゴラス派の思想はただ単にギリシア思想全体の布置の中に刻まれて、とりたてて積極的に評価されることも批判されることもなく、黄金詩編の作者であるとか、哲学を始めてその名で呼んだ人物であるとか、そういった逸話とともに記憶される存在だったらしい。アル=キンディ(9世紀)あたりもピュタゴラス派に対する評価は釈然としないという。ゲラサのニコマコスによる『算術入門』を訳したイブン・クッラ(同じく9世紀)も、実のところのピュタゴラス評価は不明らしい。一方で8世紀から9世紀に52人の哲学者の論文を集めた『書簡集』の編纂グループとされるイフワーン・アッサファー(純正同胞団)になると、どうやらピュタゴラス思想を重要視していることが窺えるのだという。さらにピュタゴラス思想を積極的に評価していた一団として、イブン=ハイヤーン(9世紀)などの錬金術関係の人々がいた。アル・ラーズィー(10世紀)なども同様。

これに対して、アリストテレス思想のシンパたちからは、それを批判する声が出てくる。ユダヤ人ながらアラビア語で著書を残しているマイモニデス(12世紀)や、イブン・バージャー(12世紀)はその代表格だというし、やや両義的ながらイブン・シーナー(11世紀)にもそういう視座が見られるという。そしてアル=ガザーリー(12世紀)。論文著者によれば、大元のアリストテレスは確かにピュタゴラス派を軽視してはいるものの、それはあくまで前の時代の哲学者たちを不完全なものと見なして、自説に必要な要素を選択するに留めていた。ところがその思想圏の影響下に置かれた人々は、この姿勢をいっそうラディカルに捉えて、アリストテレスがピュタゴラス派を「古くさい」と一蹴しているという風に見なすようになった……。このあたり、アラブのアリストテレス主義者たちは上のイフワーン・アッサファーなどへの反発なども加わって先鋭化していったようにも思われる。だとするなら、これは思想の伝達の機微といったものを改めて感じさせる事象でもある。一方、やはり12世紀ごろには、上のイフワーン・アッサファーの伝統を引く形で、ピュタゴラスとアリストテレスの調停を図ろうという人々も現れた。その一人がアル=スフラワルディだったという。同論考によれば、それぞれの評価には研究者の間でも微妙な解釈の違いなどがあるようで、こうしたまとめの俯瞰だけではとうてい語り尽くしたことにはならない。また、ピュタゴラス派の秘教的な性格やイスラム世界の宗派的対立(イフワーン・アッサファーはシーア派、しかもイスマイール派で、スンニ派のアル=ガザーリーなどはとうてい認めらない相手だった)など、受容史との関連に限っても考察すべき点はまだまだたくさんあるようだ。