スアレスとデカルトの永遠真理論

積ん読(というかハードディスクの肥やし)のPDFからスアレスとデカルトの永遠真理の問題に関する論考を掘り出す(笑)。アミ・カロフスキ「デカルトの永遠真理理論へのスアレスの影響」(Amy Karofsky, Suárez’s Influence on Descartes’s Theory of Eternal Truths, Medieval Philosophy and Theology, vol. 10, 2001)というもの。表題はちょっとミスリーディングで、スアレスの影響というよりも、スアレスの議論に応答するデカルトの立場が、あざやかな対比をなすということを詳述した一本。先に読んだ大西克智『意志と自由―一つの系譜学 アウグスティヌス‐モリナ&スアレス‐デカルト』(知泉書館)にも共鳴する内容だ。ここでの永遠真理論とは、(1)現実化されていない可能態としての本質は無であるとされるのなら(2)その場合、そうした本質をめぐる命題の永遠かつ必然的な真理の根拠は何になるのか、という問題を扱うものを言う。つまり世界が創造される以前の段階で、「人間とは理性的な動物である」という真理命題は何をもって真理となるのか、という問題。同論考によると(1)に関してはスアレスもデカルトも、可能態である限り(実在しないので)そのような本質は無であると認めているという。違いが生じるのは(2)をめぐってだ。スアレスは、真理命題の理拠となるのは、命題の項が表す「本質」の、「諸属性」の関係性だという。「人間であること」という属性は「動物であること」という属性を含み持つのであり、その関係性ゆえに「人間は動物である」という命題が真となる、というわけだ。諸属性の関係は、それ自体として創造されてはいないとされる(独立して存在するのではないから)。またそれら諸属性は、プラトン主義のように神から独立して存在するのでも、創造に先行するのでもない。これはちょっとわかりにくいのだけれど、スアレスによれば、本質を構成する属性とは、神の本質そのものを表しているとされ、したがってその意味で属性はリアルなものであり(神がリアルであるとされるのだから)、しかも(神の本質を表すのだから)必然的なものでもある、とされる。どうやらそれは、プラトン主義的な素朴論(真理命題は神とは独立に存在するとの立場)と、主意主義的な観念論(真理命題は神に全面的に依存するとの立場)との折衷案であるらしい。

しかしながらデカルトは、スアレスのこの議論を批判する。スアレスのように必然的な属性のリアリティを認めてしまうと、属性の先行性が前提とされることになり、神の創造はそうした属性から現実態にする本質を「選択」するだけとなって、神の意志の自由が制限されてしまうことになる。デカルトは、属性の先行性を否定し、そうした属性をも含めて神の創造の産物でなければならないと考える。つまり神を本質の作用因と見なし、神の存在こそが永遠真理を保証している、と考えるのだ。神は選択するのではなく、あくまですべてを無から創造するのだ、と。その意味でデカルトは「観念論者」(ここでの意味は、神の知性の中にあることをもって永遠真理の理拠とする議論)ではない、と同論考は論じている。このあたりの読みは、通説と逆行していてとても興味深い。いずれにせよ、こうして見ると、スアレスの議論は捻りの利いたアクロバティックなもの(属性が創造に先行するも、それもまた神の本質を反映しているという、二段構えで応答する)、対するデカルトの議論はきわめてストレートなものに見える。けれどもこのデカルトの議論もまたアポリアを含んでいる、と同論考は示唆する。なるほど、その立場では、神の創造以前における本質の「様相」(可能性としての状態)とはどんなものなのか、という問題が相変わらず残ってしまうわけか。で、デカルトはそれを「神のことは人間知性には計り知れないのだ」として斥けるが(アウグスティヌスがそれを神の「無時間性」で斥けたように)、逆にそのあたりの反応から、神の意志の自由が再びある種の必然(たとえば最善の世界の創造など)によって制限される事態を招いているのではないか、というのだ。結局、スアレスにしてもデカルトにしても、「必然的な永遠真理」と神の自由とが完全に相容れるような議論を展開してはいない、ということが明らかに……。というわけで、これはなかなか読ませる一篇だ。