久々にトマス・アクィナスについての長めの論考をざっと見てみた。サンドロ・ドノフリオ『表象主義者としてのアクィナス:可知的形象の存在論」(Sandro R. D’Onofrio, Aquinas as Representationalist: The Ontology of the Species Intelligibilis, State University of New York, Department of Philosophy, 2008)というもの。学位請求論文。認識論に関するものなのだけれど、トマスを直接的実在論者であるとする従来の見方に対して、その可知的形象(知的スペキエス)論が、むしろ実在論的な表象主義に合致するのではないか、という仮説を展開している。直接的実在論というのは、知覚される対象とは外部に存在する事象に他ならず、その間に余分な中間物を設定しない、という立場だ。一般にオッカムなどがそうした立場だとされるが、トマスもまた、スペキエスという介在物を仮構するとはいえ、知解に際して把握されるのはそうしたスペキエスではなく、外的事象の本質そのものだという考え方だとされていて、この直接的実在論の範疇に入る、ということのようだ。一方、実在論的表象主義とは、知覚された観念が、外部の事象を指し示しその性質を写し取りながらも、存在論的には外部の事象とは別物となるという立場を言い、この論文著者は、トマスの立場はむしろこちらにフィットするのではないか、という仮説を立てている。なにやら一見細かい議論だが、これはスペキエスの在り方をめぐる議論、ひいては認識論の構図全体にも影響しそうな議論になっている。
ここで賭されているのは、スペキエスは実体的・偶有的な形相(個別的な)を写し取るものかどうかという点だ。もしそうなら、それは介在物としてのステータスに止まる。だがそうでなく、スペキエスが外的事象の本質的な「構造」を伝えるのだとしたら、それは単なる介在物ではなく、精神にそうした「構造」を再現させるものということになる。すると、認識論的にはそのスペキエスは外的事象と同一だが、存在論的には厳密に外部事象と別物ということになる……というわけなのだが、さて、ではトマスのスペキエス論はどちら寄りなのか……?トマスは確かに、複合体の中にある原因的な形相と、知解の原理である本質としての形相(スペキエス)を区別してはいたと思うが、論者が言うようにそれらを存在論的にまったく別ものと見なしていたのかと問われれば、それは至極微妙な問題かもしれない。また、論者みずからが述べているように、この義論はどちらかといえば研究者たちの議論を突き合わせ、その間隙を埋めようとすることに主眼が置かれていて、必ずしもトマスのテキスト解釈にもとづいて立てられているのではないようで(?)、大胆ではあるけれどその点がやや気がかりでもある。とはいえ、問題提起としてはそれなりに面白いのではないかという気もしている。