休日読書を兼ねて、ジュリア・クリステヴァ『ハンナ・アーレント講義―新しい世界のために』(青木隆嘉訳、論創社)を読了。クリステヴァなんてずいぶん久しぶりだ。これはトロント大学での五回の講義(1999年)を収録したもので、「語り」のテーマをめぐるアーレントの思索と実践についてクリステヴァが多面的にアプローチしている。アーレントはまずもってアリストテレスのゾーエーとビオスの違いに触れて、ビオス(政治的な生)の前提として言葉の使用、語る行為を思い描いているという。政治的な実践は語りに、それも物語としての語りにあるとされ、ゆえに演劇は政治的領域の芸術への移しかえとして特権的な位置づけとされる。次に物語には主人公が必要とされるわけなのだけれど、それを担うのは個人、なにがしかの「人物」だ。そこではドゥンス・スコトゥスの個体化の原理が援用されて、抽象的な「人類」よりも「この人」が上位に置かれるほか、ペトルス・ヨハネス・オリヴィも言及されて「人物」の個としての独自性がこの上なく称揚される。そのため逆に身体を軽視することになるなどの点をクリステヴァは批判的に取り上げているのだけれど、そうした瑕疵(なのかな?)はともかくとして、人物としての独自性をなくそうとする「運動」や「グループ」から自衛するというアーレントのある意味孤高の姿勢は高く評価されている。前回のエントリでも触れたような、時間の中に一度きり存在した個というスコトゥス的なものに、アーレントが強く反応し、それにまたクリステヴァが応答を返していることが見て取れる。さらに、話はアーレントの未完の判断論へと進む。アーレントにとって「判断を脅かす二つの障害とは、(……)直線として経験される人間的時間にみられる不可逆性と予測不可能性という二つの障害」(p.77)だと喝破するクリステヴァは、それに対する人間の力として、忘却する力(すなわちそれは人に対する赦しだとされる)と約束する能力を挙げ、それがアーレントにおいては「公的生活に不可欠な最高の二つの「調整メカニズム」」とされているのだと述べている。このあたり、やや図式的な見立てのような感じもなくはないけれど、この赦しと約束というテーマ自体は確かにきわめて深淵なものに映る。
ちなみに訳者による巻末の解題には、アーレントとの関連でギュンター・アンダースに多くのページが割かれている。これも一読に値する文章。