フランソワ・ロワレの大部な著作『ドゥンス・スコトゥスにおける意志と無限』(François Loiret, Volonté et infini chez Duns Scot, Éditions Kimé, 2003)を、少し前から部分的に見ている。細かく見ているわけではないのでナンだが、基本的な議論の一つに、無限概念についてスコトゥスが転換点をなしているという話がある。スコトゥスはアリストテレスの議論から意図的に離れ、それまでの否定的無限概念(共義的無限)に代えて「実定的無限」(自立的無限)を掲げた嚆矢の一人とされているほか、無限を「神」を述語づける属性の扱いから、神の存在自体に内在する様態へとシフトさせて、無限に存在論的な先行性を与えた、とも論じられている。実定的無限の提示はヘントのヘンリクスも行っているといい、なるほどスコトゥス思想とヘンリクスの関係性を改めて感じさせるところでもある。ここで言う実定的無限というのは、現実態としての無限の実在ということでもあり、著者ロワレによれば、否定的無限(ヘンリクスは否定的無限と欠如的無限を下位区分しているが)からは潜勢態としての無限しか導かれないのだという。そしてまた、スコトゥスの場合、この現実態の無限から存在の一義性の議論も導出されたのだ、と著者は論じている。このあたりはじっくり検証してみたいところではある。さらに、スコトゥス以前にはそうした実定的無限を提示しえなかったのはどうしてなのかも気になるところだ。
これに関連して(関連性は微妙なところでもあるのだけれど)、時間的な「永遠」概念の東西での差異について扱った論考を見てみた。デーヴィッド・ブラッドショウ「ギリシア教父における時間と永遠」(David Bradshaw, Time and Eternity in Greek Fathers, The Thomist, vol.70, 2006)。それによると、永遠の概念の場合、西欧ではアウグスティヌスやボエティウスを始めとして、「永遠」を神の本質・本性と結びつけて論じる伝統があったが、東方に対してそれらの論者が影響を及ぼすことはなく、東方ではむしろ、神の本質について何を述べてもよいわけではないと否定する偽ディオニュシオス的な議論の枠組みが支配的で(それはすでにしてカッパドキア系の教父たちにも見られ、さらにはクレメンスやアレクサンドリアのフィロンにまで遡れるとされている)、時間についても、それが神より流出する限りにおいて神と同一視できるというスタンスが温存されていたという。つまり、神は本質において永遠とイコールなのではなく、その力、流出、エネルギーといった観点において永遠とイコールとされていた、というわけだ。この議論からすると、西欧においてはそうした東方的な否定論的傾向があまり強くなかったがゆえに、永遠概念(それは時間的無限概念ということだが)は人間の立ち入られない神の領域の核心部分に据えられ、結果的にそれを実定的な理解から遠ざけていたという仮説も成り立ちそうに思える。もちろんこれも要検証というところではあるのだろうけれど、もしそうだとすれば、スコトゥスはいわばある種の「東方化」をもたらしていたと言える……なんてことにもなったりして?(笑)
精読したわけではないのだけれど、ドゥンス・スコトゥスについてちょっと面白そうな研究書が出ている。トマス・ワード『ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスによる部分、全体、および質料形相論』(Thomas M. Ward, John Duns Scotus on Parts, Wholes, and Hylomorphism (Investigating Medieval Philosophy), Brill, 2014)。メレオロジー的な考え方を踏まえつつ、スコトゥスの質料形相論について全体的なパースペクティブでまとめ上げようという野心的な論集(と見た)。スコトゥスの質料形相論がらみでは、たとえば形相の複数性の話や、複合体である実体がまた別の実体の部分をなすといった議論、あるいはオッカムなどとの対比など、いくつかのポイントがあると思うのだけれど、同書はそうした細かい点をおおむね網羅していそうな印象。そんななか、個人的にすごく気になったのが、第七章の「suppositum」の問題。suppositum(代示)は普通、論理学の文脈では意味論的な関係性をなすものを言うのが常だったと思うが、どうもここでのスコトゥスの使い方はそれとは異なり、独特な存在論的身分が与えられている模様(なので、ここではsuppositumをさしあたり「仮象」と訳出しておくことにする)。で、それは何かというと、他に内在するでもなく、実体の本質的部分でも全体的部分でもない、位格のようなもの、最終的な現実態をなしている(実体に依存しない)ものなのだという。スコトゥスはこれに、たとえば天使(の存在様式)などを含めて考えている。そしてそのようなものは、別の実体の部分をなすことはできないとされる。他の実体の部分をなすのはあくまで実体だ、と。
前回のエントリで、トマスの実利主義をクローズアップした論考(というか発表用の原稿)を取り上げたけれど、今回も少し関連してトマスについてのより神学プロパーな論考を見てみた。ジョセフ・トラビック「アクィナスは『万人救済』を望むことができるか」(Joseph G. Trabbic, Can Aquinas Hope ‘That All Men Be Saved’? The Heythrop Journal, 2011)というもの。まずスイスのハンス・ウルス・フォン・バルタザールという神学者による、トマスの万人救済への望みの解釈が示されている。それによれば、たとえばアウグスティヌスにおいては救済の望みはあくまで本人志向なのに対して、トマスは始めて他者の救済への望みを示し、キリスト教思想に重大なシフトを刻んだのだとされるという。これに対して同論考の著者は、トマスの諸テキストを再検討することによって、それとは違う結論を導こうとしている。つまり、トマスには確かに万人の救済の望みを抱きうると(さらにはそう望むことはキリスト者の義務であるとまで)解せる文章があるものの、一方で救済予定説・永罰説についての文章もあり、これが他者(つまりは万人)の救済の望みと齟齬をきたすことになるということ。救済予定説・永罰説については、ダマスクスのヨハンネスから継承したという「神の事前的意志と事後的意志」の区別(神はあらゆる者に事前に善への性向をもたしているが、特定個人は重罪者としての性向をもつことがあり、それを事後的意志として裁くことができるというもの)を持ち出したりもしているというが、それすら上の齟齬を解消するには十分ではないとし、むしろトマスが言うところの「万人」つまり「すべての者」の「すべて」が、永罰の対象者などを含まない非・一般概念であった可能性を示唆している。うーむ、確かにトマスの実利的なスタンスからすれば、そういった解釈もありうるかもしれないとは思えるけれど、それはテキストベースで検証されなくてはならないので、さしあたり判断を保留しておこう。同論考の著者はさらに、永罰論をめぐってもさらなる議論が必要だと末尾で述べている。
キリスト教の伝統的な教えとして広く流布しているものの一つに、「汝の敵を愛せ」というのがある。けれどもこれはそう簡単なことではないように見える。これについて、トマス・アクィナスの応答を紹介した論考を見かけたので、取り上げておくことにしよう。ベレク・キナ・スミス「敵は友になりうるか?トマス的回答」(Berek Qinah Simith, Can an Enemy be a Friend? A Thomastic Reply, Patristics, Medieval, and Renaissance Conference, Villanova University, October 25, 2014)。これによると、A.C.グレイリングという英国の哲学者が近年の著作でその問題を扱っていて、敵を愛するという命題が結局は詭弁にしかならないことを示してみせたのだという。これを受ける形で、同論考はペトルス・ロンバルドゥスとトマス・アクィナスの応答を取り上げて再考している。ロンバルドゥスの議論は、人間が人間であるところの本性と、悪しきものとなる悪意(罪)との区別をもとに、「罪を憎んで人を憎まず」という議論に始終しているらしい。だがこれでは、いずれにしても同じ相手が愛と憎しみを被ることになってしまい、あまり実践的ではない。で、トマスの場合はそれにとどまらず、第三項を立てる形での議論を進めるのだという(『慈善について』が重要なテキストのようだ)。つまり愛の「形相的対象」としての神そのものだ。人はみずからに害をなす敵を(あるいは単に隣人でもいいが)直接愛することはできないが、神への愛をもって間接的に相手を「愛しうるもの」と見なすことは可能であり、さらには、相手をそのようなものと見なさないことは罪深さへの共犯関係に陥ることになるのだ、とトマスは説く。またさらに、敵を愛するとは、相手のために祈るとか、事故などの緊急時に敵であろうとケアを施すといった、一般的な愛での意味であり、敵対する他者に個別に愛を示す必要はなく(それはそもそも人間には不可能とされる)、安寧さや慈善の継続を阻む障害が取り除かれさえすればそれでよい、とも述べているという。この観点は、敵対する者との問題を協議によって解決するための第一歩にもなりうるというわけだ。なんとも実践的な観点だ。論考によれば、この実利的な議論こそがトマスの特徴をなしており、ペトルス・ロンバルドゥスにはないものなのだという。