メルマガのほうで見ている加藤雅人『ガンのヘンリクスの哲学』(創文社、1998)によれば、ヘンリクスは人間の視覚による知覚プロセスを、まずは可感的対象を無限定的なものとして捉え、次いでそれを限定的なものとして捉える、というふうに見なしている。で、知解もまた同じような方向性(無限定的→限定的)をもつプロセスだと考えていて、無限的的なものの理解が限定的なものの理解に先立つとしている。無限定的なものはさらに下位区分され、まずは非・限定的(限定不可能)なもの(つまりは神)、次いで未限定的なもの(つまりは個々に限定されない普遍的なもの)が捉えられる、としている。こうして、ヘンリクスの場合は神の認識がアプリオリなものとして人間の知性に立ち現れるという話になるのだけれど、この「無限定的なものから限定的なものへ」というプロセスは、もっと現代的な議論、たとえば現象学的な考察にも類似物を見出すことができるのかしら、ということを個人的に考えていた。で、ちょうど読んでいるアンリ・マルディネの論集『芸術と実存』(Henri Maldiney, Art et existence, Klincksieck, 1985-2003)の、空白(大文字のVide)をめぐる諸論考に、まさにそうしたプロセスの記述を見出すことができるように思われたので簡単にメモしておく。ちなみにマルディネ(1912 – 2013)は戦後にガン(ヘント)の大学で教鞭を執っていたりして、名前も含めてヘンリクスとなにやら因縁めいている……なんてね(笑)。
久々にトマス・アクィナスについての長めの論考をざっと見てみた。サンドロ・ドノフリオ『表象主義者としてのアクィナス:可知的形象の存在論」(Sandro R. D’Onofrio, Aquinas as Representationalist: The Ontology of the Species Intelligibilis, State University of New York, Department of Philosophy, 2008)というもの。学位請求論文。認識論に関するものなのだけれど、トマスを直接的実在論者であるとする従来の見方に対して、その可知的形象(知的スペキエス)論が、むしろ実在論的な表象主義に合致するのではないか、という仮説を展開している。直接的実在論というのは、知覚される対象とは外部に存在する事象に他ならず、その間に余分な中間物を設定しない、という立場だ。一般にオッカムなどがそうした立場だとされるが、トマスもまた、スペキエスという介在物を仮構するとはいえ、知解に際して把握されるのはそうしたスペキエスではなく、外的事象の本質そのものだという考え方だとされていて、この直接的実在論の範疇に入る、ということのようだ。一方、実在論的表象主義とは、知覚された観念が、外部の事象を指し示しその性質を写し取りながらも、存在論的には外部の事象とは別物となるという立場を言い、この論文著者は、トマスの立場はむしろこちらにフィットするのではないか、という仮説を立てている。なにやら一見細かい議論だが、これはスペキエスの在り方をめぐる議論、ひいては認識論の構図全体にも影響しそうな議論になっている。