ピアノ演奏の内面論?

ピアノを弾く哲学者 サルトル、ニーチェ、バルト (atプラス叢書)連休中に読み始めたものの、ちょっと間が空いてしまい、ようやく読了。フランソワ・ヌーデルマン『ピアノを弾く哲学者 サルトル、ニーチェ、バルト (atプラス叢書)』(橘明美訳、太田出版)。これはなかなかの良書。サルトル、ニーチェ、ロラン・バルトの三者にはピアノの演奏を愛好とするという共通点があり、その取り組み方は三者三様ながら、そうした演奏行為が彼らの著作での思索や議論とは別の次元を開いていたことを、同書は丹念に追いかけていく。なるほど、いくら政治的思弁や社会的コードからの逸脱を模索しようとも、ピアノを通じてロマン派的なものに各人がつながっているということは払拭しえない(たとえば三者のいずれもが、時期や思い入れの程度の差はあっても、ショパンやシューマンをなんらかの形で評価している)。それほど、19世紀以来の教養教育におけるピアノの意味合い、あるいはそこに繋がるロマン主義的なものは、強烈な刷り込みをもたらしている……ということなのか?しかもそのことは、各人にとって、なんらかの心的バランスを保つための重要な契機になっていたというのだ。ピアノ演奏はあまりに内面に深く根付いてしまっているがゆえに、それら三者いずれの文章にも、明示的に刻まれることがない(やはりというべきか、これはとりわけバルトに顕著のようだ)……。このあたり、さながらピアノ演奏の身体論・内面論という感じですらある。でもそうなると、果たしてそれはピアノのもつ特殊性(その楽器が帯びる社会的コードなど)のなせる業なのか、それとも別の楽器であっても一種普遍的にそうした別の次元がもたらされるものなのか、つまりは「音楽」(その嗜好もまた、なんらかの社会的コードを帯びているわけだけれど)そのもののなせる業なのか、といった問いも見えてくる。とはいえヌーデルマンの記述はそのあたりをあえて分析的に切り分けたりはせず、評伝的なアプローチによって三人の音楽あるいはピアノをめぐる情動に寄り添おうとしていて、それが結果的に生き生きとした内的な憧憬を浮かび上がらせている印象だ。