ジャン・グロンダン『宗教哲学 (文庫クセジュ)』(越後圭一訳、白水社)に眼を通しているところ。ちょうど近代に入るところまで。基本的には整理という点で有意義な入門編という感じ。ただ、あまり事前情報を得ずに読み始めたせいか、個人的に期待していたものとは少しばかり違った(苦笑)。同書での「宗教哲学」の扱いは、一見広い意味のようでいて案外狭く設定されている気がする。たとえば冒頭近くの概論の章(第一章)に、宗教が科学によって駆逐されたわけではないという話の文脈で、アインシュタインの発言だとして「宇宙的な宗教感情が科学的探求の最も力強く最も高貴な動機であると断言する」という引用が紹介されている。その上で、アインシュタインの語りは科学者としてではなく、むしろ哲学者として語っていることを強調している。つまり彼ら科学者が形而上学的な帰結を導いたとすれば、それはもはや科学ではなく宗教哲学の領域に属する営為なのだというわけだ。ここからは同書が、宗教哲学を宗教感情を客観的に見据えるものと定義づけていることがわかる。ところでアインシュタインの発言の肝は、むしろ科学的探求にさえその深層には宗教感情が脈打っているということなのだけれど、そうなると個人的には、そうした深層の宗教感情そのものにアプローチするための方法論なり従来の試みなり、その評価なりを期待してしまうのだが、ここで同書はそういった方向へは向かわない。というか、多少は概論的に触れるけれども(機能主義を扱った第三章)、どちらかといえば宗教と哲学との関わりの変遷のような哲学史的な話題へとシフトしていく。そんなわけでちょっとはぐらかされた感じが残る(それはもちろんこちらの勝手な思い込みのせいなのだが)。もちろん同書のスタンスも、それはそれで哲学史的な整理という点では有意義だろう。たとえば個人的には、ラテン世界から中世についての章(第五、第六章)で出てきたreligioの語源をめぐる諸説の整理−−キケロの説(「再読」という意味だという説)、ラクタンティウスの説(「結び直し」という説)、アウグスティヌスの説(「選び直し」という説)、そしてトマスにおけるその統合など−−は、それだけでなんらかの肉付けができそうなテーマに思われる。同じく第六章でのアヴェロエスやマイモニデスなどとの関連で出てきた、啓示が本来的にもつ二重の真理(大衆にとっての真理と、哲学者の合理的分析のみが見抜ける真理)の話もしかりで、これまたとても広範なテーマのほんのささやかな端緒だと思われる。