ダヴィッド・ラブーアン『普遍数学』(David Rabouin, Mathesis universalis, PUF, 2009)を読んでいるところ。とりあえずざっと前半のみ見てみたけれど、いろいろと興味深い。とりあえず大筋のエッセンスだけメモ。普遍数学(学問的序列の上位に位置するという考え方)はもちろんデカルト以降のものだけれど、一応その大元の発想はアリストテレスにあり、ルネサンス期にその概念の再発見がなされたという経緯がある(実際、たとえば中世盛期のゲントのヘンリクスあたりでは、数学は神学、形而上学、自然学の下に位置づけられていたりする。ルネサンス期のピコ・デラ・ミランドラでもそうみたい)。同書の前半は、アリストテレスの発想が結実しなかったのはどこに問題があったのか、またそれがどのように継承され、ルネサンス期の復興やデカルトにいたってそれをどう処理したのか、といった点を跡づけようといういう試み。アリストテレスにおいては、実は普遍数学への言及は二度ほどしかなく(『形而上学』のE1とK7)、その定義も問題含みで、まずもってそれが扱う対象が自然学の対象から明確に分離されていないという。というか、基本的に曖昧だとされる。たとえば数と大きさについて、アリストテレスはそれらを別個に扱うとしながら、一方では「大きさとは数である」といった言明も見られる(通約可能な大きさの比を扱う際など)。この立場は、曖昧さも含めてエウクレイデス『原論』に合致しているという。
その後、「普遍数学」は後世の新プラトン主義が受け継いでルネサンス期へと橋渡しする。けれどもその大きなモチーフとなったらしいのが、プラトンの対話篇(別人の作ではないかという説も当時から根強くあるようだが)『エピノミス』で、『原論』とは違う観点による数学の一体性の議論が見出されるという。そこでは数学は学知のほとんど最高位を占めるかのようで、コスモロジーにまで及ぶ範囲をカバーしているのだとか。要は数学的事象の一般理論の可能性を示唆しているというわけ(『エピノミス』は未読だけれど、俄然読んでみたくなった)。いずれにしてもアカデメイアでは、プロクロスにいたるころまで、そうした数学的位置づけが伝統としてあったらしい、と。
で、再びエウクレイデスを持ち出してそれと統合しようとするのがプロクロス(エウクレイデスへの注解)ということになるようなのだが、プロクロスは実に慎重に論を進めていて、数学が自然学との仲介役になるといった重要な観点を示しつつも、一般理論の提示にはなかなか至らない。アリストテレスにあった対象の設定問題がまたしても立ちふさがることになるようだ。で、ここから後半のルネサンス期の再考へと繋がっていく、ということになるようだ。