文庫化されたローティの『プラグマティズムの帰結 (ちくま学芸文庫)』(室井尚ほか訳)を読んでいるところなのだけれど、これの第7章が「虚構的言説の問題なんてあるのだろうか?」となっていて、フィクションに関する存在論的議論の一定のまとめとして興味深い。従来(とはいえこの章を構成する論考が書かれたのは1979年とのことだが)の諸説がここでは四つの大別され(ラッセル、サール、指示の因果説、マイノング主義)、それぞれに簡潔なまとめと批判が加えられる。それらを一通りめぐった上でローティは、なにやらあっけらかんとした「きわめて素朴な観点」を提示してみせる。つまり、以上の四つをすべて回避して、指示の観念など無意味だとし、「〜について語る」という常識的観念があればいいんじゃないの、その「〜」を決める規準など、話者が心の中にもてばなんだっていいじゃないか、と言うのだ。意味論を認識論から完全に分離せよ、ということなのだが、「ただやさしく単純なだけで完全に役に立たない」とみずからが言うこの立場を、しかしながらローティは「正しいと思う」と述べている(p.369)。なんという潔さ……こういうところがプラグマティストたる強みというか。「指示されるものは何であれ必ず存在する」というラッセルの掲げるテーゼは、いわば人為的に作られてきたものでしかなく、それに拘るのは、20世紀の意味論的伝統と、心的表象と実在をつなごうとする認識論の伝統との結びつきのせいだと喝破する。
これに関連して一つ。少し前にざっと眼を通しただけなのだけれど、アミー・トマソン『フィクションと形而上学』(Amie L. Thomasson, Fiction and Metaphysics (Cambridge Studies in Philosophy), Cambridge Univ. Press, 1999-2008)も、これまた同じようにあっけらかんとした虚構の存在論を展開していて面白かった。これまた大雑把にまとめれば、フィクションに登場するキャラクターは抽象的な人工物として捉え、必要な支持が得られる世界においてのみ、存在論的な依存関係をもった実体であると見なされるべし、というのが前半。これも上のローティにつながるような議論かも。さらにそうしたキャラクターをも包摂できる立体的な範疇論を考えよう、というのが後半。範疇論の拡張を持ち出してテーマを拡げているあたりがなかなか巧みに思えた。もちろんその一方で、従来の指示理論などへの批判、あるいはマイノング主義のようにキャラクターを性質の集まりと見なす立場への批判などもあって(このあたりもまた上のローティに重なってくる)興味深い。虚構的なものを排除することが節減の原則に適うという一般的な考え方にも反論を加えている。従来説を異なる観点からばっさり斬っているみせるところが、とても小気味よいというか、「読ませる」ものだった。