corpus hermeticumよりーー音楽の喩え 2 – 3

Les Belles Lettres版の解説では、このヘルメス選集(C. H)のXVIII章は、「王」(ディオクレティアヌスとその取り巻き)を讃える演説(300年ごろの)の寄せ集めだとされる。しかも実際に発話された演説だという確証もない、と。ヘルメスとその弟子たちのとの関係のない、いわば偽論文であって、C.Hに収録されたのは編纂者の無知によるのでは、とのこと。編纂者は何かこういう「無意味な戯文」に魅せられたのだろうという。

また、この第二節の欠落を含む部分は、音楽で「競い合う」(ἐναγωνίζεσθαι)という場合の、コンクールでのパフォーマンスの順番が反映されているのだとか。ラッパがまず最初に吹かれ、伝令の声、叙情詩の朗読、詩人による朗誦などが続いた後、笛の出番となり、次にキタラ(琴)演奏、そしてキタラの弾き語りが繰り広げられ、これが演奏のハイライトとなるという。

2. 音楽であたう限り競い合いたいと思う巧者にとって、まずはラッパ吹きがそのスキルを誇示しようとし、次いで笛吹きが叙情的な楽器でメロディの甘美さを味わわせ、葦笛やプレクトラムが歌の拍子を決め(……欠落……)、原因が帰される先は演奏者の息ではなく、より高次の存在でもないが、その者自身にはしかるべき敬意を払い、楽器については弱点を非難するのである。なぜならそれがこの上なき美を阻み、奏者の歌を妨げ、聴衆から甘美な調べを奪うからだ。

3. 同じように、私たちについて、肉体的な弱さがあるからといって、観衆の中に、私たち人類を冒瀆的に非難する者など一人もあってはならず、むしろ神が疲れを知らぬ気息であること、つねにみずからに固有の学知との繋がりをもち、途切れることなく幸福感に溢れ、つねに変わらないその善き行いをあらゆることに用いることを認識しなくてはならない。