またまた読みかけだけれども、ロバート・ブランダム『推論主義序説 (現代哲学への招待 Great Works)』(斎藤浩文訳、春秋社、2016)を見ているところ。原著は2002年刊。文章が少し固い印象で、読み進むのがときおり難儀に感じられるような箇所もあり、できればもう少しこなれていてほしい気もするが、それはともかく、プラグマティズムの一分派だというこの「推論主義」、文の概念的内容を、その文の要素である名辞や述語などからボトムアップ的に考える従来の「表象主義」でなく、それを逆転させるかたちで、文が担う機能的・使用的な面から、この場合なら推論という表現の関係性からトップダウン的に意味を考えるという立場のことを言うらしい。ここでの「推論」も、従来のような論理的能力をベースに、合理的・形式的な推論の規則を記述していくというものではなく、より実質的・実践的な、よりしなやか・細やかで暗黙的な表現の繋がりのようなものを考えているように思われる。
だいぶ前に、ロボットなどの制御システムの構築にあたって、すべてのステップを分岐させて細かく網羅的にプログラミングするのではなく、素材のもつ弾性などを利用できる場合には利用するという発想の転換(シンプルデザインみたいな名前がついていたような気がする)によってプログラミングのステップを縮小・効率化する、みたいな話があったが、この推論の考え方はそれに重なるようにも思える。条件法をもとにすべての分岐を事細かく形式的に記述していくのではなく、概念内容に暗黙的に含まれるもの(「ピッツバーグがプリンストンの西にある」なら、「プリンストンはピッツバーグの東にある」が推論されるのは、「東西」の概念内容にもとづく推論だとされる)などはそのまま実質推論として受け止める、という発想であるように見える。確かに、ごくありふれた自然な、あるいは日常的な推論というものは、形式的に込み入った記述で成り立っているのではなく、もっと「シンプル」だと思われる。そこを掬い上げようという方向性には、ある種の共感を覚える。もちろん、それが哲学的な記述の体系としてどうなのかはまた別の問題になってくるのだろうけれど……。こうした実質的な推論の内実から出発して、同書は最終的に、その考え方からどのように末端の名辞や述語の意味論が導けるか、というところまで行くようなので(冒頭のほうでそのような宣言がある)、個人的には楽しみな展開でもある。メモるべきことがあればまた取り上げよう。